わたしに何をしてほしいのか
マルコの福音書10章46節~52節
[1]序
今回の箇所マルコ10章46~52節を味わうため、やはり前後関係が大切な手引きになります。
今回の箇所の直前10章32~45節では、弟子たちの先頭に立ちエルサレムへ向け進む主イエスの姿を教えられました。そればかりでなく、復活の主イエスが、いつも弟子たちの先頭を進まれるのです(参照16章7節)。
それと同時に、主イエスに従うべき弟子たちの現実・彼らの姿も明らかにされたのです。
主イエスの目がエルサレム、そこでの十字架に向けられているとき、弟子たちの思いは、自分が将来つきたい栄光の座に向けられていた事実も見ました。このような弟子たちに対して、主イエスは、なおも呼びかけてくださるのです。異邦人の支配者に見られる道(10章42節)とは違う、人の先に立ちたいと思う者はみなのしもべになりなさいと仕える者の道(43、44節)を彼らに教えられたのです。なによりもご自身の実例を通して(45節)、主イエスは弟子たちに歩むべき道を教えておられます。
また今回の箇所の直後のマルコ11章1節から16章においては、エルサレム入城、さらに十字架から復活へとマルコは描き進めます。
このような前後関係の中で、私たちが教えられるのは、主イエスがあのような姿であった弟子たちを連れてエルサムへ進まれた事実です。そしてエレサレム入城直前の出来事を、今回の箇所・10章46節から52節においてマルコは記しています。
[2]バルテマイの求め(46~48節)
(1)「ナザレのイエスだと聞くと」(46~47節前半)
46節の前半では、主イエスの一行がエリコに来り、そこで滞在後、エリコを後にしようとしている場面をマルコは描いています。
そして46節後半では、テマイの子バルテマイに目を向けています。この二つを堅く結ぶのは、47節の「ナザレのイエスだと聞くと」とある、バルテマイが主イエスについてニュースを聞いた事実です。
主イエスについて「聞く」ことがいかに大切であるか、ローマ10章17節、「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」を通して教えられます。
(2)「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(47節後半、48節)
バルテマイは、主イエスについて聞いたのです。これが大切な出発点です。しかしそれだけではないのです。バルテマイは主イエスについて聞いたとき、彼なりの応答をなしたのです。バルテマイの応答、それは「ダビデの子よ。私をあわれんでください」との叫びです。しかも47節と48節に二度繰り返し強調しています。
①「叫び始めた」(47節)
「ダビデの子よ。私をあわれんでください」とは、本来主イエスの弟子たちが求めるべき祈りです。先頭に立ち進む主イエス。その主イエスの思いとは大きくずれた状態にいる弟子たちになおも呼びかけてくださるお方。まことの光であるお方(ヨハネ1章5~7節)に、自分が見えていない現実の中でバルテマイは「叫び始めた」のです。
②「……ますます……叫び立てた」(48節)
バルテマイが信仰の応答の一歩を踏み出したのは、幸いです。しかしそのまますべてが順調に進んだのではないのです。
「そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめた」(48節)とあります。
このバルテマイの前に立ちはだかった障害を思うと、マルコ4章2節以下で読んだ種蒔きのたとえを思い出します。
みことばが蒔かれるとき、それが道ばたに蒔かれたり、岩地に蒔かれたり、さらにはいばらの中に蒔かれる状態に直面すると教えています。マルコ4章13~20節を読み、確認したいのです。
バルテマイの場合も、こうした成長をそこね、実を結ぶことを妨げるものに直面しています。しかしその現実の中で、バルテマイは、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と、「……ますます……叫び立てた」のです。
[3]主イエスの招き(49~52節)
確かにバルテマイの姿は、良い地に蒔かれた種の実例です。
しかし中心は、バルテマイ自身ではありません。バルテマイが心をこめて叫び続けたお方、主イエスご自身がバルテマイに道を開いてくださったのです。
(1)「あの人を呼んで来なさい」(49~50節)
バルテマイの叫びに答えて、主イエスは、「あの人を呼んできなさい」と、彼を招いてくださいます。この招きのことばは、主イエスの弟子たちに語られたことばで、直接バルテマイに語りかけられたものではありません。しかし51、52節に見る、主イエスのバルテマイに対する直接の語りかけのための道を開くものです。恵みの備え、恵みの源です。
(2)「わたしに何をしてほしいのか」(51、52節)
①「わたしに何をしてほしいのか」
このことばは、10章36節、「イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか』」を思い起こさせます。
主イエスがヤコブとヨハネに対し語りかけられたことばをもう一度確認したいのです。自分たちは見えていると考えていた二人が主イエスに対し求めたものは、自分たちが栄光の座に座ることでした。他の十人も同じです。ヨハネ9章の生まれつき目の不自由であった人についての記事の最後のことばを注意したいのです。ヨハネ9章41節をお読みします。
「イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、「私たちは目が見える」と言っています。あなたがたの罪は残るのです』」
②「先生。目が見えるようになることです」
しかしバルテマイは違います。彼は自分自身についてよく知っていたのです。主イエスに何を求めるべきかをはっきり答えることができました。
バルテマイの姿を見ていると、主イエスに同じように問いかけられた人のことを思い出します。ヨハネ5章1節以下に登場する、38年もの間、病気にかかっていた人(5章5節)のことです。
「よくなりたいか」(5章6節)と主イエスに問われたとき、この人は、その問いに直接答えることができなかったのです。7節以下にあるように、38年間のことに心を奪われて、主イエスの問いに率直に答える備えがないのです。
ですからバルテマイが自分の必要を的確に知り、主イエスに伝えている姿を注目すべきです。
③「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」
この主イエスのバルテマイに対することばは、バルテマイが実際に目が見えるようになる前に語られました。バルテマイの記事はただ肉眼が見えるようになることだけを課題としているのではない。それは、この一事からも明らかです。
[4]結び
「すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」(52節)。これこそ、今回の箇所の中心であり、頂点です。
(1)「すぐさま彼は見えるようになり」
マルコの福音書が描く目を開かれるとは、先頭に立ち進む主イエスを見ることである、そう教えられて来ました。さらにそれは、主イエスが見ておられるものを見る者とされます。主イエスにならい、二つの方向に視線が向けられるのです。
①「イエスは、舟から上がられると、多くの群集をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6章34節)
②「するとイエスは、五つのパンと二匹の魚とを取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた」(マルコ6章41節)
この二つの方向に目を注ぐために、バルテマイは目を開かれるのです。私たちも同じです。
(2)「イエスの行かれる所について行った」
バルテマイのその後については、マルコは直接何も記していません。しかし、この印象深い10章52節後半は、バルテマイが11章以下に記されている主イエスの十字架への道に従い通したことを指し示していると言えないでしょうか。
そしてバルテマイの道は、最初にマルコの福音書を読んだ人々、そして今マルコの福音書を読む私たちの歩むべき道なのであると教え、この道を歩むように励ましてくれています。
「さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい』」(マルコ11章1、2節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。