先頭に立ち進む主イエス
マルコの福音書10章32節~45節
[1]序
今回の聖書箇所マルコ10章32~45節でも、主イエスと弟子たちの姿を対比させながらマルコは描いています。この対比により、主イエスと弟子たちの関係がより深くより鮮明に指摘されます。
[2]先頭に立ち進む主イエス(32~37節)
10章1~12節に見る夫と妻の関係、続いて13~16節の子どもを主題にしながら、「神の国」についての教え、さらに17~31節においては、経済的祝福から神の国に入ること・救い、そして再び経済的祝福について主イエスが教えられる場面を私たちは味わって来ました。
(1)32節前半
新しい場面への移行はとても印象的です。32節前半をお読みします。
「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた」
主イエスはエルサレムを目指すのです。その目的は、32節後半で明らかにされています。32節では、まずエルサレムを目指して進まれている姿そのものを描き、それは弟子たちを圧倒するような威厳(いげん)あるものです。
ここに見る「先頭に立って」と訳されている言葉は、マルコの福音書の最後16章7節でも用いられています。お読みします。
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい」
エルサレムに向けて先頭を進まれた主イエス、そして復活なさった主イエスが弟子たちに先立ち進まれるのです。
(2)十字架と復活の預言(32節後半~34節)
32節の前半に描かれている主イエスの姿は、16章7節に記す復活の主イエスの姿とともに印象的です。しかし主イエスの姿と共に、主イエスの十字架と復活についての教えをマルコは伝えています。主イエスは弟子たちに教えている内容(10章32節後半から34節まで)をお読みいたします。
「すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります』」
ここに見る、主イエスの十字架と復活が現実となる場であるエルサレムへ向けて、主イエスは進まれるのです。
主イエスがエルサレムに上られるのは、当時のユダヤ人一般がするようにエルサレムへ巡礼に行くのではない。また弟子たちのある人々を含めて期待したように、ロ-マ軍と戦い、これに勝利し王座に着くためではないのです。
(3)「人の子が来たのも」(45節)
このマルコ10章45節は、今回の箇所の大切な結びのことばです。さらにそれはマルコの福音書全体の中でも中心的節の一つです。
この節では、ご自身について、二本の柱とも言うべき二つの事実を主イエスは明言しておられるとマルコは記しています。
①「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるため」
この箇所で、弟子たちの現実を承知の上で、主イエスが弟子たちに仕える者として歩みを進めている様をマルコは描いています。
②「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」
主イエスが、十字架の意味を明らかにされています。
「贖いの代価」、奴隷や戦争で相手の捕虜(ほりょ)となった者を解き放ち自由にするために支払われる代価。主イエスは、罪人が罪赦されために、ご自身の命を与えてくださると教え、実行なさる事実をマルコは書き記しています。
参照イザヤ53章10節、「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」。
この節と同様、仕える者としての主イエスと十字架の切り離すことのできない深い関係を明示している、ピリピ2章6~8節をお読みします。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」
[3]弟子たちの現実と弟子たちへの呼びかけ
主イエスの姿と教えの対比で、弟子たちの現実が明らかにされます。
しかし弟子たちの現実が明らかにする、そのことが目的のすべてではない。その弟子たちに、主イエスは呼びかけておられる、この一点が中心です。医者が診断をなし、治療するときのようです。
(1)弟子たちの現実
①32節
弟子たちの現実をマルコは率直に描いています。
「弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた」
②35~41節
主イエスの受難の予告を聞いた弟子たちの間で、なおどのようなことが起こったかをマルコは伝えています。
ゼベダイの二人の息子たちは求めます。メシアの勝利の際には、他の弟子たちではなく、この自分たちこそ王座の右に左に座る特権を与えられるように願ったと。
38節に見る主イエスの指摘のように、自分が何を求めたのか二人は理解していないのです。主イエスが言われる杯を飲み、バプテスマを受ける(38、39節)意味を二人は理解できません。しかし彼らがそれを経験すると主イエスは指摘なさいます(参照・使徒の働き12章2節、黙示録1章9節)。
二人だけでなく、他の弟子たちも、「腹を立てた」(41節)とあるように、彼らも全く同じ状態でした。
(2)弟子たちへの呼びかけ
①一般的な現実は、良く知られています(42節)
②弟子たちへの呼びかけ(43節)
弟子たちの現実の中で、43、44節、「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」に見るように、主イエスは彼らに呼びかけ続けておられます。
[4]結び
先頭に立ち進まれる主イエスと弟子たち。
弟子たちの現実が明らかにされる中で、その彼らに、主イエスは教え、呼びかけられます。弟子たちは主イエスに応答し従いながら、主イエスご自身の十字架とその意味を教えられるのです。
すべては、先頭に立ち進まれる主イエスご自身の恵みによる事実を今回の箇所を通し、はっきりと教えられます。
「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしたほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです』」(マルコ10章51節)
◇
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。