主イエスに聴従
マルコの福音書9章1節~13節
[1]序
(1)今回は、新しい章・9章、その1節から13節を見ます。この箇所は、8章31節から38節までと対比され、堅く結ばれています。
8章31節と32節の前半で、主イエスが(全き人となられた)ご自身の十字架と復活について預言なさったのに対して、ペテロが弟子を代表するかのように、いさめ・しかり始めたのです(32節)。罪以外、全く私たちと同じになってくださった、主イエスの人性についての誤解であり、曲解です。
ところが9章2節からは、「御姿が変わった」(2節)と、主イエスの神としての性格(神性)について、これを祭り上げようとする誤解、曲解です。
このように悟りの鈍い弟子たちを、主イエスは忍耐の限りを尽くして導かれます。主イエスの愛を目の当たりにするのです。
(2)9章1節、特に「神の国が力をもって到来しているのを見る」についての理解に注意したいのです。この一節のみに目を注ぐだけでなく、同時にマルコの福音書全体、主イエスの御業全体、さらには新約聖書全体や新旧聖書全体を視野に入れ、その一部としての一節を理解する必要があります。
◆ここでは、近い将来、つまり、使徒の働きに見る教会設立と聖霊降臨という、教会における神の国の来臨について語られているとの提唱(ゲルハルダス・ヴォス『神の国と教会』)に賛同します。
[2]「彼らの目の前で御姿が変わった」(2節)
(1)「御姿が変わ」るとは(2~4節)
①中心は、「彼らの目の前で御姿が変わった」こと。3節は比較による説明。
「御姿が変わった」と訳されていることばは、マタイが同じ場面を描く際にも用いられています(マタイ17章2節)。さらに注目すべきは、キリスト者・教会の聖化(主イエスに似る者とされて行く歩み)を描く際、大切な箇所で、パウロがこのことばを用いている事実です。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12章2節)
「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3章18節)
②それに続いて、「エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた」(4節)。
◆参照
主イエスがやがて栄光のからだをもって再臨。この恵みは「いまだ」実現していません。(しかし)やがて必ず実現します。
主イエスは、「すでに」苦難の僕として十字架に。
以上の、「いまだ」と「すでに」の両者(新約聖書の終末についての教えの両面)の接点を示すものとして、変貌山の記事の位置は大切です。参照ラザロの記事(ヨハネ11章21~37節)。
(2)ペテロの口出し(5、6節)
「すると、ペテロが(口出しして)イエスに言った」(5節)。「口出しして」は、意訳のため付け加えた表現です。
旧約聖書における代表者とは言え、主イエスをエリヤやモーセと同列におき、祭り上げる問題点が前後関係の中で浮かび上がります。
三つのものを、三者に。
↑
↓
8節の強調、「自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった」と、主イエスの特別な位置を強調しています。
ペテロの問題点は6節、「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった」に明示されています。
恐るべきものや都合の悪いものを祭り上げ、宗教化し、日常生活から分離し絶縁してしまうのは、しばしば見られる現象。
[3]「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(7節)
(1)「彼の言うことを聞きなさい」
中心は主イエスに対する聴従です。
①主イエスを祭り上げ、宗教の衣を着せてしまうのでなく、主イエスに聴従。直接には、8章34~38節に明言されている主イエスのことばに従うのです。主イエスが誰に、何を言われたかを注意しながら、34節をお読みします。
「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」
「自分を捨て、自分の十字架を負」う生活・生涯、その特徴として、前回は主イエスの十字架を恥じない点を見て来ました。
ここでは、主イエスへの聴従にマルコは集中しています。生ける主イエスに聴き従うのです。世々の聖徒たちが経験して来たように、聖書を通し語られる主イエスのことば。そうです。声に聴き従うのです。
そして主イエスを通し、聖霊ご自身の支えを受けつつ、父なる神に祈るのです。家庭、職場、学校など、私たち各自が与えられた場で、そうするのです。また目に見える教会の現実から身を引くことなく、誤解を恐れず言い切るなら、主イエスのゆえに、教会に献身しながら果たすべき役割を果たしつつ生きるのです。その時、平凡な私たちも背骨のビンとした、腰のすわった者として家庭、職場や学校で生かされます。そうです。私たちは孤独から解き放たれ、焦りから自由になります。
②参照マルコ1章9~11節。より広い意味では、御父、御子、御霊なる神の愛の交わりに迎え入れられる、おどろくべき恵みへの招きです。
(2)「人の子が死人の中からよみがえるときまでは」(9~11節)
6節には、「ペテロは言うべきことがわからなかった」とあります。
ではペテロがわかるべきことは何なのでしょうか。それは、主イエスの十字架をはっきり理解すること。
9節以下では、「人の子が死人の中からよみがえる」との表現が、9節と10節で繰り返されています。これと同時に、主イエスの復活以前の十字架に焦点を合わせ、強調しているのは明らかです。
ペテロをはじめ弟子たちが直面していたつまずきは、栄光の主イエス(8章38節後半で明言されている場合も、ここで特別な意味で明らかにされている場合も)が、イザヤ53章で預言されている苦難の僕である事実です。
この点は、11節以下の弟子たちの質問でも明らかです。
弟子たちのエリヤについての質問(11節)に対して、主イエスは、「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します」と答え、さらに13節においては、バプテスマのヨハネについての事実をイエスは明示なさいます。
しかしより大切な点は、「人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」(12節)と、弟子たちの本当の問題、直面すべき課題は、主イエスの十字架であると、否定することのできない表現で主イエスは提示なさっています。
ペテロが主イエスをエリヤとモーセとともに祭り上げようとしたことは、彼が主イエスをいさめようとしたとき(8章32節)と同様、十字架抜きの主イエスを求めたことになります。そこにはもはや、自分を捨て、自分の十字架を負い、主イエスに聴従する、十字架を担う生活・生涯は姿を消してしまいます。
[4]結び
今回ともに味わった聖書のことばをもって、聖餐式について二つの点を確認します。
(1)主イエスのことばに聴従する、大切な一歩として
私たちが守る聖餐式は、主イエスが十字架にかかられる前夜、弟子たちと守られたパンと杯による最初の聖餐式に起源を持ちます。主イエスの再び来たり給うときまで、これを守るようにとの定めに従うのです。ですから聖餐式は、私たちが主イエスのことばに従う大切な一歩であり、主イエスのみことばに聴き従う歩みを、その週も、その月もなし続けて行く決意の現れでもあります。
(2)新約聖書の終末の教えの一つとして
聖餐式は、主イエスが、すでに十字架でなしとげなさった贖いの業に堅くたちます。主イエスの贖いは、すでになされたのです。
しかし同時に、御国で新しく飲む時は、いまだ実現されていません。しかし必ず実現されます。この「すでに」と「いまだ」に挟まれた期間、私どもの日々の食事は、特別意味を持ちます(参照Ⅰテモテ4章3~5節)。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。