外側と内側
マルコの福音書7章1節~23節
[1]序
今回は7章に進み、少し長い箇所で、みことばに聴きます。
話のきっかけは、主イエスの弟子たちが、手を洗わないでパンを食べているのをパリサイ人たちと幾人かの律法学者が見とがめ、主イエスに質問したところにあります。
確かに表面的には質問の形を取っています。しかし明らかに主イエスに対する攻撃です。話の内容は、人間の外側から入るものと人間の内側から出るものの対比です。
主イエスが語りかける相手は、パリサイ人たちと幾人かの律法学者から、群衆(14節)、そして弟子たち(17節)と移ります。しかし提示している主題は、基本的には同じです。
内容に直接入る前に、3、4節、「─パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある─」を注意します。マルコの福音書が書かれ、最初に読まれた当時の課題、また今ここで私たちがマルコを読む際に直面する課題に、この3、4節は触れています。
A1)もともと主イエスとパリサイ人たちと幾人かの律法学者の問答
↓☆時間・年数の経過、場所の違い、生活習慣、文化の違い
A2)マルコの福音書が書かれ、異邦人を含む最初の読者が読んだとき
3、4節に見る説明により、時や場所の違いは乗り越えられ、主イエスのメッセージは、時間や文化の違いを越えて伝えられ、受け入れられ、実を結ぶ。
B1)マルコの福音書が書かれ、最初の読者が読んだとき
↓☆20世紀もの時の隔たり、勿論大きな生活習慣、文化の違い
B2)今、ここでマルコの福音書を読み、信じ受け入れる私たち
3、4節と同じ役割を果たすことを願う、今この宣教により、☆は乗り越えられ、主イエスのメッセージが私たちの生活・生涯に直接届くように心から祈るのです。
その際、私たちがより頼むのは、主イエスが約束くださった聖霊ご自身の助けまた導きです。ヨハネの福音書の2箇所に見る励ましに富む約束をお読みいたします。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14章26節)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」(ヨハネ15章26、27節)
[2]パリサイ人たちと幾人かの律法学者に対して(1~13節)
主イエスの弟子たちが「汚れた手」、マルコが説明しているように、「洗わない手」(3節)でパンを食べているのを見ます。パリサイ人たちや幾人かの律法学者が、直接的には弟子たちのことを取り上げながら、その実主イエスを攻撃します。
(1)洗わない手での食事をめぐる攻撃と防御(1~8節)
①「昔の人たちの言い伝え」(3節)
それは律法学者が律法から導き出した規則のこと。ここでは、祭司が犠牲をささげる前に、身を水で洗うこと(レビ8章6節)から拡大解釈されて、一般の人が普通の食物を食べる際にも同じことが求められるようになった事実を指しています。
②6、7節
主イエスは、イザヤ29章13節を引用し、外面的な敬虔さと内面的な不敬虔さを対比させ、攻撃を防いでおられます。
(2)主イエスの逆襲(9~13節)
8節と9節は、内容から言えば、両方とも神の戒めを人間の言い伝えで無にしているとの指摘です。しかし同じ内容でも、8節は1節からの締めくくりで、バリサイ人や律法学者の攻撃は、この宣言で退けられています。
ところが9節は、8節と同じことを繰り返しながら、この土台に立ち、防御ばかりでなく逆襲するのです。
主イエスが指摘なさるのは、10節に引用している「あなたの父と母を敬え」と明白に教えている聖書の教えを、11節に見る「コルバン」をめぐる言い伝えにより「空文にしてい」(13節)る事実です。
このように、8、9、13節と「神の戒め」と「人間の言い伝え」の対比を繰り返し、問題の中心が明らかにされて行きます。聖書から引き出された解釈が、聖書から離れて一人歩きをして、聖書と同じ権威を求めることがないよう、常に聖書そのものに立ち返り、そこに根差す必要を教えられます。
[3]群衆と弟子たちに対して(14~23節)
14節からは、主イエスが語りかける人々が、13節までとは異なります。
(1)群衆に対して(14、15節)
パリサイ人や律法学者、言わば宗教的指導者・専門家の攻撃を主イエスは防御し、逆襲するだけではないのです。
彼らから見下げられていた「群衆」に、主イエスは再び呼びかけます。呼びかけの内容は、1~13節で焦点を絞られている、外側からのものは人間を汚すことはない、汚すのは人の内側から出るものなのだ、この指摘です。
主イエスのことばを聴いて悟るようにと、主イエスは群衆に対する期待を明らかにされます(参照・6章53~56節)。
(2)弟子に対して(17~23節)
ここでの中心点は、「このように、すべての食物をきよいとされた」(19節)です。これは、マルコの言葉です。この箇所で主イエスが語っていることが、マルコの福音書を最初に読んだ人々が現に直面していた食物・食事をめぐる課題についても、的確な教えであることを明示しています。
外側から人間の内側にはいる食物について、明確な指針が与えられると同時に、20~23節に見るように、人間の内側から出て人を汚す罪についても言及します。
[4]結び
(1)食物をめぐり初代教会が直面した課題について、細部に至る詳しい点は別にして、その全体像、大枠を確認します。
①放縦(ほうじゅう)、食べたい放題
「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(Ⅰコリント15章32節)と心の奥深く空しさを抱き、それを忘れ一時の満足を得ようとして飲み食いする様を見ます。
これとは逆に、富も財産も手に入れることができた、これから先の心配はないと自己満足し、必ず直面する死の事実を軽視、さらには無視して、「これから先何年もいっぱい物がためられた。さあ。安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(ルカ12章19節)との態度。
②禁欲主義、食物に対して神経過敏
ある人は野菜より外に食べてはいけないと考えました(ローマ14章2節)。
また肉でも特定の肉は食べてはいけないと考え、実行した人々がいました。同じ肉でも、料理の方法いかんでは、食べてはならないとの主張もありました。こうした考えと実践のいずれもが、人間の外側からの食べ物が人間を汚れたものとする力があるとの考えに基づいています。
③上記の極端な考えや実践を背景に考えると、18、19節の教えがまさに解き放ちの教えであったことを理解できます。
さらに聖書が食物本来の価値について教えている好例として、Ⅰテモテ4章3~5節を挙げることができます(参照・ローマ14章4節、ヘブル13章9節)。
(2)聖書本来の教えから脇道にそれて、細かいことのみにこだわり、あれはしてはいけない、これもしてはいけないと消極的な禁止事項を二重、三重に課してしまう傾向。これらと反対に、主イエスは積極的な生き方を宣べ伝えておられる事実を、今までにもマルコは明らかにしていました。たとえば、次の箇所で、マルコ3章4節、35節。これは、ローマ12章1、2節に見る、礼拝の生活そのものです。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。