では、あなたがたは
マルコの福音書8章22節~30節
[1]序
今回の聖書箇所を直接見る前に、前回見ましたマルコ7、8章の流れをおさらいします。7章と8章で同じ内容の記事を繰り返しながら、全体の頂点として8章29節、「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです』」に焦点を絞る組み立て・構造。
以下に見るように、二つの同じような出来事の連続を繰り返しながら、頂点に至るのです。
①群衆の養い(6章31~44節、8章1~9節) 8章1節、「また」
②湖の渡り(6章45~56節、8章10節)
③パリサイ人たちと衝突(7章1~23節、8章11~13節) 8章13節、「また」
④パンをめぐる会話(7章24~30節、8章14~21節) 五千、四千の群衆
⑤いやし(7章31~36節、8章22~26節)
⑥信仰告白(7章37節、8章27~30節)
まず6章31節からの結びとして7章37節、「人々は非常に驚いて言った。『この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた』」が位置し、強調されています。
同様に8章1節からだけでなく、さらに6章31節からの結びとして、8章27~30節が大切な役割を担います。キリスト信仰こそ、自分が描く福音書を読む一人一人に現実となるようマルコが祈り書き進めている目標です(参照・1章1節)。
[2]「イエスはもう一度」(8章22~26節)
22~26節と27~30節の二つの記事は、その場面の場所も登場人物も大きく異なります。しかしこの二つの記事を並べて、両者が深いところで生きたかかわりを持つとマルコは指し示しているのです。
(1)22~26節は
22~26節はマルコの福音書だけに登場し、マルコの特徴をよく示す記事です。一方において、マルコは余分なものを極限まで取り除き、必要最小限のことのみ書き記す傾向があります(参照・8章29節とマタイ16章16節の比較)。
しかしここでは、主イエスが瞬間的に病を癒やされたのではなく、一歩一歩の過程を通し御業をなされた事実に焦点を合わせ、一つ一つの進展をマルコは細部にわたり描いています。参照、創世記25章20、21、26節。イサクの祈りは、瞬間的に答えられたのではなく、十数年に及ぶ年月の流れの中で。
(2)「イエスは盲人の手を取って」(23節)
目の不自由な人の手を取り歩まれる主イエス。主イエスの人格的な暖かみを感じるではありませんか。
8章16節、「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」に見る弟子たちの姿、そこに自分自身の姿をマルコは見ており、マルコの福音書を最初に読む人々も自分自身の姿そのものを見ることをマルコは意図して描いています。
◇参照、マルコ14章51節にマルコは直接自分自身の姿を描くとの説あり。
(3)「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」(24節)
生まれつき目が不自由だったのでなく、途中失明の方であったとマルコは示唆(しさ)しています。おぼろげに視力が回復し、次第にはっきりと見えて来る喜びが伝わります。
(4)「イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた」(25節)
両眼につばきをつけたり、両手を当てたりするなどは、当時の癒やしの方法です。主イエスは、人々のレベルまで下り、ご自身の意志を相手に伝えています。心低き主イエス、心暖かき主イエス。
「もう一度」。すべてをはっきり見えるようになったのではない。しかし何も見えないわけでもない。「人が見えます。木のように」ぼんやりと。主イエスが手を尽くされたのに、なおも中途半端な状態。このような者を「もう一度」と、主イエスは導かれています。
この「もう一度」とあるように、神の恵みは尽きず、私たちの生活・生涯が成り立つのです。もう駄目だ、ヤメタと言い張るとすれば、「もう一度」の主イエス以上に先を見通せると断定することになり、それは余りと言えば、余りのことです。
[3]「では、あなたがたは」(8章27~30節)
ここで、主イエスは弟子たちに、二種類の質問をなさっています。
(1)「人々はわたしを」(27、28節)
第一の質問は、人々は主イエスをどのように見ているか、いわば一般的な情報です。事実をはっきり知ることは、勿論、私たちにとり大切で、それは確かに必要です。しかし、それだけでは十分ではないのです。
(2)「では、あなたがたは」(29、30節)
主イエスは、弟子たちが自分自身のこととして答えるべき質問をなさいます。弟子たち、また私たちは、自らの生活と生涯をもってしか答えられない質問を受けているのです。答えるなら、今までの生活・生涯を続け得ない、生き方、さらに死に方さえ左右する問いの前に立つ道をペテロは選びました。
[4]結び
(1)キリスト信仰・信仰告白がいかに大切か。今回、ペテロにとりキリスト信仰告白がいかに大切かをマルコが描く事実を確認しました。同様に、それは、私たちにとっても全く同じなのです。
①使徒信條における、主イエスについての信仰告白
キリスト信仰、その告白がいかに重要であるか。この事実は、私たちが主日礼拝で毎週公に告白している使徒信條においても明らかです。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」に続いて、「我はその独り子、彼らの主、イエス・キリストを信ず」から、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」に至るまでの部分は、主イエスについての信仰告白で、単にその長さから見ても、際立っているのを誰も否定できません。
②日本福音キリスト教会連合・信仰告白に見るキリスト信仰、信仰告白
日本福音キリスト教会連合・信仰告白は、簡易信仰告白と呼ばれるもので、聖書、神、神のわざ、人間、キリスト、聖霊、救い、教会、再臨と最後の審判の9つの箇条を中心に信仰の告白をなしています。
キリストについての信仰告白は第5条で、その内容は、使徒信條におけるキリスト告白に基づいています。しかしこれだけでなく他の箇条においても、主イエスについての告白と密接な関係で信仰の告白がなされていることを解説文は明らかにしています。
ここで私たちが最大の注意を払う必要がある事実があります。それは、主イエスについての信仰の告白は、単に教えや理屈を受け入れるのではない点です。信仰告白は、主イエスご自身との人格的な交わり、日々の生活における、そして生涯を通しての交わりを経験するために与えられた恵みの手段である事実を覚え、何が目的で、手段は何か見定め続けたいのです。
以下、幾つか鍵となる聖句に意を注ぎます。
◆Ⅱテモテ2章8節、鍵の聖句
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」
聖書があかしする生けるキリストを生活・生涯において心のうちに思い巡らし、主イエス・キリストご自身に日々従うのです(マルコ8章34節)。
(2)聖霊ご自身の助け・あかしにより初めて、人の心にキリスト信仰が生まれます。しかし同時に、主イエスの弟子たちのことばも、現代の説教・宣教も、主イエスをあかしするため恵みの道具として用いられるのです。
◆Ⅰコリント12章3節、鍵の聖句
「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリント12章3節)
◆ヨハネ14~16章を全体として
特にヨハネ14章26節、鍵の聖句
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」
ヨハネ15章26、27節、鍵の聖句
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」
「もう一度」の主イエスに生活・生涯をおいて従うのです。決して、もう駄目だ、ヤメタと投げ出さない。また、もうだいじょうぶと油断しない。「もう一度」の主イエスに手を引かれての一歩、一歩であり、一日、一日なのです。あなたも私も。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2章20節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。