祈りによらなければ
マルコの福音書9章14節~29節
[1]序
今回、私たちが味わうマルコの福音書9章14~29節は、直前の9章1~13節とは違う意味で理解困難な箇所です。
9章1節からの箇所はどんなことが書いてあるのか、その内容を知るのは、それほど問題ではありません。しかしここに書かれてあることが本当に起こった事実なのかと疑問が提出されます。さらに事実として受け止めることなどできないと批判し、困難だと断ずるのです。私たちは、率直な理解を前回確認しました。
ところが今回の箇所では、記事の結びである、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません」(29節)、これが何を意味しているか、その肝心な結論の意味を理解するのが困難です。
そこで、まず「この種のもの」とはどんなことか、次にこの箇所で、「祈りによらなければ」と主イエスが言われているのは、どのような意味なのか、それぞれに見たいのです。
[2]「この種のもの」とは
「この種のもの」が何を指しているのか、この箇所の前後関係とこの箇所全体の内容に注意を払い、理解の手掛かりを私たちなりに得たいのです。
(1)山の上と山の下
①マルコ9章1~13節の記事で、ペテロに代表される弟子たち(外ならない私たち)の問題点は、祭り上げと十字架抜きにある事実を見ました。
山の上との対比で、山の下での出来事として描き出されている「この種のもの」とは、汚れた霊に苦しめられる息子と父親の実例に見る通り、病や死、欠乏や破滅が支配している現実です。そこで真に生きようとするなら、息子の苦悩を我がこととする父親が身をもって実証している、十字架を負い生きる生活・生涯以外ではないのです。
(2)父親が自分の息子について見る個人的・人格的関係
「この種のこと」とは、父親の群衆との関係、また息子との関係に見ることができます。
①「群衆のひとり」(17節)と、群衆の中から、掛け替えのない一人の人格として、主イエスの御前に立つのです。
②また息子との関係では、あのヤイロが自分の娘を「私の小さい娘」(5章23節)と呼んだように、息子との間で互いに相手に全人格的に向き合うものでした。「この種」とは、群衆の中に埋没したり、いつでも誰かによって代用されるような人間関係でないのです。お互いになくてならない人格関係において堅く結びつくのです。
(3)父親と息子の実例に見る、マルコの福音書の家族重視
マルコが家族の関係、その重要性に意を注いでいる事実を、これまでに何回も見てきました。以下の例に見る通りです。
①1章29~31節
②3章13~19節
③5章1~20節
④5章21~43節
⑤6章14~29節
⑥7章1~23節
⑦7章24~30節
[3]「祈りによらなければ」
(1)「律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた」(14節)
苦しむ息子と一つになり苦しみを共有する父親のようにではなく、第三者の立場で論議のための論議を進めているのです。
(2)「お弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした」(18節)、「私たちには追い出せなかった」(28節)
弟子たちの無力について父親の体験を通しての証言を見ます。
他の人から無力を指摘されるだけでなく、弟子たち自身が、「この種のもの」に対する無力を自覚しているのです。単に無力を自覚するだけではなく、その原因を弟子たちは、主イエスに尋ねます。それは当然で、弟子たちは、主イエスの名による癒やしの業を経験していたのですから。
なぜこの度はできないかとの思いに満たされるのは、自然なことです。
(3)父親の祈り
①「私の息子」
あのヤイロが自分の娘について主イエスに語ったときの言葉、「私の小さい娘が死にかけています」を思い出します。「私の息子」とは、息子と私は切り離せず、一体であるとの意味です。母親と娘(マルコ7章24~30節)ばかりでなく、父親と息子も主イエスにある絆(きずな)を持ちます。
②「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」(22節)
「私の息子をあわれんでください」ではないのです。息子の苦しみは私の苦しみで、苦悩・痛みにあって、親子の堅い結びつきが現実となり、「私たちを」なのです。
③「信じます。不信仰な私をお助けださい」(24節)
山の上では、すべてが奇麗事(きれいごと)で済むことも可能です。しかし、山の下の現実ではそうはいかないのです。ここでは、自分自身の不信仰がさらけ出されることなくしては、真の祈りなどできないのです。
[4]結び
(1)マルコに見、また現代日本が直面する家族の二面
マルコが家族を描くとき、ヤイロの場合のように、突然の病で家庭が大きく崩壊(ほうかい)に直面する、家族の限界を浮き彫りにします。
さらにヘロデの家庭(家庭と呼べるかと問われる程の実態)などさまざまな破れが明らかにされています。それらは、まさに現代日本の実情に通じるものです。
その上、主イエスご自身も地上での家族において同じ痛みを経験なさっている事実をマルコは率直に描きます。
しかしそれだけではないのです。
真に家庭の破れを身に負いつつ、その現実の中で、主イエスは、「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(3章35節)と、家族について失望し、絶望している者さえ、驚くべき真の家族へ招き、現実の破れのただ中で止まり、耐えるように支えてくださるのです。
(2)この世にあって、この世のための神の家族としての教会
①神の家族としての教会、そして小さな教会としての家族、この両者の堅い結びつきを、それぞれの生活・生涯において深く経験したいのです。
②この指針を、私たちそれぞれに受け止めたいのです。それこそ、恵みに対する、私たちなりの心からの応答です。私たちの家族にかかる「この種のもの」は、「信じます。不信仰な私をお助けください」の祈りなくして前進なしです(参照・マタイ11章28~30節)。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(マルコ9章37節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。