創造の初めから
マルコの福音書10章1節~12節
[1]序
今回の箇所で直接問題となっているのは、パリサイ人たちの質問に端を発する離婚の問題です。この話題を中心に論じて行く記事を通し、マルコは何を読者に伝えて行こうとしているのでしょうか。
まず前後関係を注意したいのです。
8章では、エルサレムへ向かう主イエスが弟子たちに、十字架を担い、自分に従うことを求めなさる記事(8章34~38節)。このように明示された弟子の道を歩もうとする弟子たちは、なおも主イエスのことばを誤解し、見当外れを繰り返して来ました。しかし主イエスは彼らを見捨てず、彼らを導かれて行く。そうした中で、今回の記事は描かれています。
[2]「イエスをためそうとした」(10章1~5節)
(1)全体の流れ
この箇所で夫と妻の関係を取り上げた後、13~16節では子どもの問題、17~22節では財産を中心に記事は進展して行きます。ここに見るような身近な事柄・日常生活で直面する事々を通し、主イエスの弟子の道をいかに歩むべきかマルコは描いて行きます。
(2)バプテスマのヨハネとの関係
私たちは、バプテスマのヨハネがヘロデ王の家庭について、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です」(6章18節)と鋭く指摘している事実を見て来ました。パリサイ人たちは、離婚の問題について、あのヨハネと同じ考えかと主イエスに問うのです。単に離婚についての質問だけでなく、その背後に統治者との関係が問われています。「イエスをためそうとした」と言われている通りです。
この「ためす」ということばは、マルコの福音書において、他の3箇所で用いられています。それぞれ誰が誰に対しためしているのかを注意することにより、この箇所に見るパリサイ人たちの質問の動機が明らかになります。
①「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた」(1章13節)
②「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである」(8章11節)
③「イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。『なぜ、わたしをためすのか」(12章15節)
(3)より枝葉へ
主イエスは、パリサイ人たちの質問の本音に気が付かず、彼らの問いに歩調を合わせるかのようにして、「モーセはあなたがたに、何と命じていますか」とパリサイ人たちに問われます。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました」と、彼らは答えをすでに知っているのです。
しかしこの答えの性質に注意する必要があります。彼らの関心は、どのような場合に離婚を許すか、どこまでが許される範囲なのかに関心を払っています。結婚そのものより、離婚。離婚そのものより、どのような場合の離婚と、中心から次第次第に離れて枝葉へと関心が向かいます。
[3]「創造のはじめ」(10章6~12節)
このようなパリサイ人たちに対して、主イエスは、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです」(5節)と、モーセのことばの背景、どのような由来で、このことばが与えられたか十分に注意を払っておられます。
(1)「創造の初め」(6節)
しかし離婚について命令が与えられた背景、由来に注意を注ぐだけではありません。「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです」(6節)と、主イエスは結婚の本来の源を指し示されます。
(2)本来の姿に立ち返ることが大切
このように基本に注意を十分払うことを主イエスは何よりも大切になさいます。枝葉の課題を解くためには、まず基本に立ち返る必要があります。
これは、結婚についてだけでなく、私たちの生活の様々な面で複雑な現実で理解し、解決を見い出す道です。聖書から、二つの例を見ます。
①マルコ5章で見た、あのゲラサ人の解放の場合を思い出したいのです。5章15節をお読みします。
「そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった」
「正気に返る」、本来の自分に戻る、そのことがカギです。
②もう一つ、放蕩息子の例を見たいのです。ルカ15章17節をお読みします。
「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ』」
本来の自分、自分らしい自分に立ち返ることが大切です。
(3)「家に戻った弟子たちが」(10節)
9節までに見るパリサイ人たちのやり取りにおいてだけでなく、10節から12節に見る、弟子たちに対しても、主イエスは結婚の原点を教えられます。
[4]結び
「創造の初め」を基本にする態度は、終末の希望を大切にする態度とも堅く結びつきます。
「神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」(黙示録1章8節)。結婚についても、創造の初めに堅く立つと同時に、終末のキリストの花嫁としてのキリスト者・教会の姿に私たちは目を注ぎ、初めと終わりの間に存在する現実の課題を勇気をもって対処することを許されています。失望に打ち勝って進む道が開かれています。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇121篇1、2節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。