第2章 ウルトラ良い子の特質
2)本質志向性(続)
ところでよくこんな質問に遭遇します。既に不登校になって久しく、家にいてもほとんど部屋に引きこもり、自室に家族さえ入らせず、昼夜逆転し、その上更に何か注意しようものなら途端に逆切れし、どなり散らし、大暴れするわが子について、「先生どこがウルトラよい子なのですか。うちの子は何一つ是々非々を弁えられず、いつになっても幼稚で、まともなことは何一つできず、そのくせ他人を批判する段になると偉そうに、立派な口をきくのですが…」など、しきりに嘆かれるのです。
こうした彼ら病める子らの言動の中には、およそ健常人から見れば支離滅裂で、異常なほどに強烈な自己主張ばかりが目立ち、そこには何一つ卓越した本質志向性など見えてこないという場合が多いのです。しかし、それでいて彼らは依然本質志向性を持った人間であることに変わりはないのです。
何故そうなるのかと言えば、現在現われている異常行動、異常心理は、すべて彼らがそれほどまでに心傷つき病んでしまっていることのゆえであって、彼らはその見かけの現象や症状とは不連続に、あくまでも依然本質志向性を持ったウルトラ良い子たちなのです。ただその極度の抑圧とトラウマのゆえに、その本性が機能できず、停止状態になってしまっているばかりか、これは真に不思議なことなのですが、ほとんど多くの場合それが全く逆転して発症してしまうのです。
これこそが極度の抑圧とトラウマの悲劇、脅威と言えましょう。筆者は、この逆転症状の信憑性をこの種の多くの心病める青少年たちの事例の内に見届けてきました。これらの点に関しては、また後に詳述しましょう。
3)霊的志向性
次は、霊的志向性です。ウルトラ良い子たちは、生まれながらにしてこの霊的志向性に富んでいます。霊的志向性とは、霊的感性(霊感)が鋭く、目に見える可視的世界を越えて、目をもって見ることのできない不可視的世界に深い好奇心、探究心を抱き、死後の世界や永遠の世界、神の存在やその裁き、霊魂の存在やその滅び等に深い関心を持つ特別の性質(傾向性)を言います。筆者は、彼らを「生まれながらの宗教家」などと呼んでいます。彼らは、ことさらに誰かからこうした内容のことを聞かされたり、学んだわけではありませんが、幼いころより霊的関心が強いのです。
例えば、まだ3歳の小さな女の子で、通常の子供たちであったなら決してそれほどまでに死を恐怖しないはずなのですが、ウルトラ良い子は死を異常なほど恐れ、毎晩夜になるとなかなか寝つかれず、「わたしは死んだらどこに行くの?」としきりと母親に尋ね、困らせるケースがあります。
また中学生位の女の子で、よく占いや迷信に心ひかれ、これにのめり込んだり、騙されたりする子がいます。これらの子供たちの多くが、実は生まれながらのウルトラ良い子で、かつ霊的志向性に富んだ子供である場合が多いのです。ですからこうした子供たちをやみくもに「臆病な子」、「おかしな子」などと、軽く往なしたり、あしらったりしてはなりません。それが彼らの内に宿っている極めて大切な霊的志向性から出ている場合があるからです。その場合は、その真意をしっかりと受け止め、その霊的志向性が健全な形で伸びて行くように善導してあげる必要があるのです。
それなのにそれを放置し、のみならず嘲ったり、否定したりしていくと、後になってその充足されなかった思いや否定された悲しみの感情が屈折して、悪霊や呪詛などに引き回される異常心理や異常行動を引き起こさせる一大原因になりかねないからです。そして意外にこのような不幸なケースが、今日続出しているのです。異端やいかがわしい宗教に走る人々、また自ら神がかった言動をとる宗教的妄想に取りつかれた精神疾患者などの内に、実はこの種の人々が多く含まれているのです。
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。