石原艶子
1942年長野県生まれ。16歳の時、キリスト信仰に導かれる。愛農学園(三重県)で24年奉仕し、沖縄県西表島に移住。夫婦で農家民宿「友和村」を20年営み、心の病んだ人や不登校の子どもたちを受け入れてきた。2010年に沖縄本島に移住、13年から辺野古の新基地建設中止を求めて座り込みを続けている。うるま市在住。無教会所属。
1942年長野県生まれ。16歳の時、キリスト信仰に導かれる。愛農学園(三重県)で24年奉仕し、沖縄県西表島に移住。夫婦で農家民宿「友和村」を20年営み、心の病んだ人や不登校の子どもたちを受け入れてきた。2010年に沖縄本島に移住、13年から辺野古の新基地建設中止を求めて座り込みを続けている。うるま市在住。無教会所属。
強く迫ってきた思いは、辺野古・大浦湾を埋め立てて失ってしまったら、二度と永久に戻らないという現実の厳しさでした。だから私は、あえて声を大にして叫びたいのです。首里城よりも大切なものは、神が与えてくださった辺野古・大浦湾の宝の海なんです、と。
ゴスペルの歌声が闇を動かし、若者たちの魂に届き、闇を打ち破る行動が生れることを祈りたい。私は生かされて、許される日の限り、ゴスペルを歌い続けたいと思う。毎月曜、夕日が沈むころ、車の騒音の中にも確かにゴスペルの歌声は力強く聞こえている。
例年より長かった梅雨と戻り梅雨が明けてから、沖縄は灼熱(しゃくねつ)の太陽が照りつける厳しい夏を迎えています。今回も選挙により「辺野古新基地NO」の民意を示しましたが、沖縄には民意はないものとされ、現実が変わることはありません。
普天間基地にオスプレイが強行配備された2012年10月から、私たちは普天間基地野嵩(のだけ)ゲート前でゴスペルを歌い、聖書の御言葉に聴き、平和への祈りをささげてきました。そんな中で集い来るキリスト者としての絆が結ばれていきました。
朝鮮半島の平和を願う韓国訪問団に、沖縄からの31人の仲間の1人として参加させていただけたことを心から喜び、感謝しています。この旅を通して学んだことの一端をお伝えしたいと思います。
去る3月5日、日本友和会(JFOR)の友人3人と共に、ずっと願っていた宮古島に行くことができました。「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」の清水早子さんと、日本基督教団宮古島教会の牧師、坂口聖子さんから、現地を案内していただきました。
辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票は投票率52パーセント、反対が72パーセントで43万票、有権者の4分の1超えという結果となりました。沖縄の人たちと心ひとつにして支援してくださり、お祈りくださったすべての人たちに心からの感謝を申し上げます。
26日(土)、県民投票キックオフ集会に3千人もの県民が結集して、辺野古新基地を絶対に造らせないとの沖縄県民の心が一つになって叫びを上げました。米軍基地キャンプ・シュワブが揺り動いているように私は体中で感じました。
辺野古の海、土砂投入始る――12月14日、沖縄防衛局は土砂投入を予告はしていましたが、本部港塩川地区の使用不可の中、まさかと思いきや、名護市安和(あわ)にある民間の琉球セメントの桟橋を使って、ついに土砂が辺野古の海に投入されました。
工事再開――。9月30日、玉城デニー新知事誕生を共に喜び祝い踊ったあの日から、2つの台風襲来が前途の苦難を予告していたとはいえ、こんなにも早く辺野古工事再開の日が来るとは・・・。あまりにもひどい国の仕打ちに言葉を失いました。
前号の月桃通信は強い危機感を持って書きました。それは名護方式という、あの名護市長選挙での敗北が悪夢のように付きまとっていたからです。もし知事選に敗北したらもう後はないと思いつめ、最悪な事態までも考える中でただ神の助けを祈っていました。
あの地獄の戦争体験から73年の時がたち、若い世代は生れた時から基地があり、軍用機の爆音にも慣らされて、基地へのアレルギーもなくなり、国家に反抗することのメリットを見いださず、国策に従順に従う道を選び始めている。
翁長知事さんが命を懸けて死の直前に撤回を表明され、力尽きて、副知事さんに託されて逝ってしまわれました。最後まで県民との約束を守り、真実を貫かれました(言いたくはありませんが、県民を裏切った前知事と180度違いました)。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。この聖書のメッセージは、人間が人間であることの基本中の基本を語っていると思います。人間がこの共感する心と感性を失ってしまったら、この世は何と無機質な灰色の世界となってしまうことでしょう。
辺野古新基地反対の、キャンプシュワブゲート前での座り込み抗議行動が始ってから、何と5年目を迎えました。信じられないほどの時の経過です。最近、この座り込みの現場の中で私は「弱さで闘おう」と思うに至りました。