前回は、現在、脳機能局在説が疑問視されているけれども、これを説明できる定説が存在しないことをお話ししました。
今回は、物質ではない心が、どうして物質からなる体(または脳)で生み出されるのかという「心身(心脳)問題」が古代ギリシャ時代以来どのように論じられてきたかを概説します。そして、心と体(脳)が別々に存在すると考える「心身二元論」が西欧では公式見解とされて発展してきたことを説明します。
【今回のワンポイントメッセージ】
- デカルト(17世紀)によって信仰と科学の衝突を回避して心と脳の関係を説明する「実体二元論」が提唱され、19世紀末には物理主義(唯物論)に基づいて説明するように刷新された心脳二元論(随伴現象説)が提起された。しかし、20世紀末から二元論より一元論が支配的になった。
心身問題における一元論と二元論の源流
原子論を提唱した古代ギリシャの哲学者デモクリトス(BC5~4世紀)によって、体のみならず心もただ一つの原理、すなわち原子の振る舞いに還元して説明できると考える唯物論的な心身一元論が提起されました。
しかし、一元論的な考えはほとんど広まりませんでした。古代の人々は、霊魂の存在を信じていたので、精神と体という二つのものが別々に存在すると考える心身二元論が一般的だったからです。
哲学者プラトン(BC5~4世紀)は、霊魂は物質ではなく不滅であり、肉体に生命を吹き込むと想定する「霊肉二元論」(図1)を唱えました。
これを古代の教父アウグスティヌス(AD4~5世紀、第24回)がキリスト教的に変容して受け入れたために、西欧キリスト教世界では心身二元論が公式見解とされてきたのです。
デカルトの「実体(相互作用)二元論」
心身二元論は17世紀に、科学者でもあり「近世哲学の祖」と呼ばれたルネ・デカルト(第15回)によって近代科学に合うように刷新されました。
デカルトは、科学革命(第29回)によってもたらされた信仰と科学の混乱を正し、キリスト教を擁護する目的で、全ての学問を統一することを企てました。すなわち、「われ思う、ゆえにわれあり」と述べて自分の心が存在することを自明の真理と認めることから出発して、神の存在を証明し、ついで宗教や道徳の根拠を明らかにしていったのです。
デカルトは、霊魂は物質ではなく不死であるから、哲学と神学で扱うべきであると主張して科学の対象から切り離しました。そして、物質で作られた体は法則に従って動かされる機械であるが、心は機械ではないと論じ、心と体という二つの実体が存在すると想定する心身の「実体二元論」を唱えました(図2)。
ただしデカルトは、心と体(脳)は脳中の松果腺といわれる器官で相互作用すると主張しました。それ故デカルトの二元論は「相互作用二元論」とも呼ばれています。
デカルトは、霊魂を科学から分離して、信仰と科学の対立を回避する道を備えたのです。従って相互作用二元論は、当時広まっていた自然主義――超自然(この場合は霊魂の存在)を排して全ての現象を自然界で普通に起きている事柄で説明する思想――を信奉する多くの科学者や哲学者によって受け入れられました。
随伴現象説の興隆
19世紀後半になると、神経科学や心理学などと共に生理学が発達し、松果腺で心と脳が相互作用するというデカルトの説は否定されました。
また当時、既存の物理学によって世界の全てを説明することを目指す物理主義*が広まっていたので、デカルトが自明の存在と見なした心も物理学で説明すべきと考えられるようになりました。
- [*物理主義は「唯物論」とほぼ同じ。その極端な形が、全ての現象は力学で説明されると考える機械論的な自然観(第10回)]
しかし、心――特に意識――は主観的な体験であり、数量化できないので既存の物理学では扱えません。この問題を解決するために、「意識は、脳の活動に随伴して起きる現象にすぎない」とする「随伴現象説」と呼ばれる心脳二元論が提起されました(図3(a))。
随伴現象説では、意識が脳に働き掛けることはない」とされています。例えば、目覚まし時計の活動に随伴して「目覚まし音」が生み出されますが、「目覚まし音」が目覚まし時計に働き掛けないのと同様です(図3(b))。
ここで、意識は数量化できず物理学の領域の外にあるので、心を物理法則で説明する必要がないと想定されています。それ故、既存の物理学に何も付け加えないで心と脳の関係を説明できるという利点が随伴現象説にあるのです。
このため、20世紀には物理主義(唯物論)に立つ多くの科学者によって随伴現象説が受け入れられました。
心脳二元論の衰退
しかし、随伴現象説は哲学者によって次のように批判されていました。
意識は脳と相互作用しないと想定されている。ところが、人間は意識について脳で考察する。これは、意識と脳が相互作用していることを示しているので矛盾している。
このため随伴現象説は、現在、心脳問題に関わる科学者および哲学者の間で主流にはなっていません。
20世紀後半には、心と脳は補足運動野と呼ばれる部位で相互作用すると考える新たな実体二元論(相互作用二元論)が神経生理学の開拓者と呼ばれるジョン・エックルス(ノーベル賞受賞者)によって唱えられました。しかし、これもその後広まりませんでした。
20世紀末には、量子力学の原理を取り入れて量子脳理論*と呼ばれる新しい心脳二元論が幾つか提唱されましたが、実証実験ができないので支持者は限られています。
現在は、二元論よりむしろ、物質からなる脳(あるいは未知の因子)だけが実体として存在すると想定する心脳一元論が支配的になっていることを次回にお話しします。
【まとめ】
- プラトン(BC5~4世紀)が唱えた心身二元論(霊魂が肉体に生命を吹き込む)が、教父アウグスティヌス(AD4~5世紀)によってキリスト教思想に取り入れられ、西欧キリスト教世界の公式見解とされてきた。
- 17世紀にデカルトによって霊魂を科学の対象から切り離して信仰と科学の衝突を回避した「実体二元論」(相互作用二元論)が提唱され、19世紀末に物理主義(唯物論)に基づいて心と脳の関係を二元論的に説明する随伴現象説が提起された。
- 20世紀末に、神経生理学の成果や量子力学の考えを取り入れて新たな心脳二元論が作られたが、その後、心脳二元論よりも、心と脳を不可分と考える心脳一元論が支配的となった。
【次回】
- 現在、心脳一元論に関するさまざまな説が唱えられていても、脳から主観的な心 (意識)がどのように生じるかを説明できず、明確な定説(標準的パラダイム) が存在しないことを説明します。
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