前回は、クーンのパラダイム転換モデルは厳しく批判されていますが、現実の科学の世界では、パラダイムが存在し、科学者は通常はその枠の中で研究していることをお話ししました。
今回から数回にわたり、現在の脳科学の分野の未解決問題、特に意識と脳に関する謎を探ります。問題を解決するためにいろいろな説が提起されていますが、定説(標準的なパラダイム)となるものがないことを明らかにします。
【今回のワンポイントメッセージ】
- 現在、脳機能局在説(脳のいろいろな機能は脳の局在した各部位で行われると考える)が疑問視され、脳の全体が一つとなって機能を担うと考えられている。しかし、これを説明できる定説は存在しない。
疑問視されている脳機能局在論
第16回で紹介したように、脳には脳神経細胞(ニューロン)が約1千億個存在し、神経細胞1個当たりに数万個のシナプスがあります。シナプスを介して神経細胞が複雑に結合して作られた神経回路(図1)が脳の機能をつかさどっているとされています。
さらに、MRIなどの脳画像法や神経細胞の電位を測定する技術を用いた研究から、脳のさまざまな機能は、脳の局在されたそれぞれの部位で行われている(図2)と考えられています。これを「脳機能局在論」といい、現在、医学界では定説とされ、治療に応用されています。
しかし、脳機能局在論は脳科学者によって疑問視されています。
脳の機能が局在していないことは、リハビリの効果からも伺えます。脳出血によって、例えば運動野(運動をつかさどっている領域)が破壊されても、リハビリによってある程度運動能力が回復します。これは、他の領域が運動野の機能を代替するようになるからで、もともと運動の機能が運動野に局在していなかったことを示唆しています。
さらに脳機能局在論は、次に述べる「結び付け問題」から厳しく批判されているのです。
結び付け問題の謎
結び付け問題とは、「脳の各部位でバラバラに生じた情報がどのようにして一つに結び付けられるのか」という問いです。現在この疑問に答えることができません。
例えば赤いリンゴを見たときに脳内で行われる情報処理(図3)で考えてみましょう。
眼の網膜で得られた視覚情報(電気信号)は、視覚野に送られ、そこの五つの領域(VI、V2、V3、V4、V5)で奥行き、色、動き、形が認識されます。その後、二つの視覚路に分かれ、紫色で示した領域では「赤いリンゴ」として図形的な認識がされ、緑色の領域で「リンゴがどこにあるか」という空間的な認識がされます。
また、図4に示した「クレーター錯視」からも、眼で見たものが脳に作り出す視覚情報と、脳の中の先入観(予備知識)が与える情報が結び付けられて画像が認識されていることが分かります。
ところが、脳のいろいろな場所で処理された多くの情報を一つに結び付けている「局在化された部位」は脳の中には見いだされません。それゆえ、脳機能局在論は疑問視され、脳の機能は脳全体で担われているという全体論的な考えが多くの脳科学者によって支持されているのです。
しかし、脳が全体論的に振る舞って情報処理をしていることを具体的に説明できる定説は存在しません*。つまり脳科学の分野には、脳の全体論的な性質を説明できる「標準的なパラダイム」は存在しないのです。
- [*「場の量子論」と呼ばれる物理理論に基づいて脳全体を一つとして扱うモデル(量子脳力学)が提起されていますが、具体的にどのような情報処理が行われるかは説明されていません]
【まとめ】
- 現在、「脳の各部位で生じた情報がどのようにして一つに結び付けられているか」という「結び付け問題」に答えられない。
- それゆえに、脳機能局在論が批判され、脳の機能は脳全体で担われているという全体論的な考えが脳科学者によって支持されている。しかし、これを説明する定説(標準的パラダイム)はない。
【次回】
- 心と脳(体)の関係を説明する「心脳(心身)問題」の歴史を概説し、心と体(脳)が別々に存在すると考える「心身二元論」が西欧では公式見解とされて発展してきたことを説明します。
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