前回は、クーンが、科学はパラダイム――主要な一つの科学理論とそれを支える世界観などを含む信念体系――が他のパラダイムで置き換えられるパラダイム転換によって断続的に発展してきたと提唱したことを説明しました。パラダイム論は、科学を絶対視する見解を打破して科学を相対視する視点を与えました。
今回は、パラダイム論が厳しく批判され、新たな理論がどのようにして生み出されるかについて議論百出していること、また、クーンが科学の合理性を否定していると誤って批判されたことをお話しします。しかし、どんなに批判されても、現在、現実にパラダイムが存在し、科学者は通常はその枠の中で研究しているのです。
【今回のワンポイントメッセージ】
- クーンは科学を「人為的な構成物」と見なす非合理主義者として批判されたが、当たっていない。彼は、科学は客観的なデータと合理的な論理によって絶対的な真理を目指して連続的に発展してきたと考える「科学の虚像」に反対したにすぎない。
パラダイム転換は起きていない?
クーンに反対した科学者は、次のように論じました。
科学は、パラダイム転換によって断続的に発展してきたように見えるが、実際は連続的に進歩している。例えば、ニュートン力学から相対性理論へ転換したのは、ニュートン力学が適用できる範囲が連続的に拡張されて進歩したにすぎない*。それゆえ、両理論の間に不連続なパラダイム転換が起きたとは言えない。
- [*相対性理論の効果は、観測者の速度が光の速度に近いときにのみ顕著に現れる。観測者の速度を小さくしていくと、相対性理論の式はニュートン力学の式に連続的に移行する]
これに対して、クーンは次のように反論しました。
ニュートン力学と相対性理論は、理論式を見る限りでは連続している。しかし、時間と空間の概念が両理論では全く別のものに置き換えられているので*、世界観が換わっており、まさしくパラダイム転換が起きている。
- [*ニュートン力学では、絶対的に不変なものとして定義されていた時間と空間が、相対性理論では、観測者の運動に依存する相対的なものに変わっている(第1回)]
クーンは、パラダイム転換の前後で世界観が換わることを視覚心理学者が描いた「多義図形」(図1)を援用して説明しました。一つの多義図形をじっと見つめていると、突然、別の見え方が生じます。同様に、パラダイム転換では同じ観測データを別の世界観に基づいて眺めることによって、従来の理論を超える新たな理論が生み出されるとクーンは主張したのです。
クーンは非合理主義者?
クーンは、競合するパラダイムは互いに相いれない世界観と深く結びついているので、パラダイム間の優劣は、論理学や数学のように純粋に合理的な基準だけでは決まらないと論じました。つまりパラダイム間の優劣を公平・中立に判定できないと唱えたのです。
従って、パラダイム間の論争は、自説で自説を擁護し他説を退ける一方的なものとなります。量子力学論争でボーアおよびアインシュタインが行った(第3回)通りです。
それゆえ、クーンは新たな理論が科学者集団の多数によって受け入れられることによってパラダイム転換が起きると主張しました。つまり政治抗争と同様に多数決によって決着がつけられると唱えたのです。
さらにクーンは、科学者集団のメンバーが古いパラダイムを捨てて新しいパラダイムを受け入れる体験を、「改宗(conversion)」に例えました。
これに対して反対派は、クーンは「人間の『集団心理』や『多数決』によって科学理論の真偽が決まる」と一方的に述べて科学を相対化する相対主義者であると非難しました。そして、クーンのことを、客観的な実験と合理的な論理に裏付けられている科学の合理性を否定して、科学を「人為的な構成物」と考える非合理主義者である、と糾弾したのです。
「科学の虚像」に反対したクーン
しかしクーンは、科学を集団の心理学的な効果や多数決に還元する相対主義者でも、科学の合理性と科学の進歩を否定する非合理主義者でもありません。それどころか彼は、パラダイム転換によって科学は自然をより深く合理的に説明できるように進歩していることを積極的に認めています。
ただクーンは、科学は観測データと論理的な考察によって絶対的な真理を目指して連続的に発展してきたと考えて科学を絶対視する“科学至上主義”を批判したのです。つまり、絶対視されていた「科学の虚像」に反対したにすぎません。
パラダイム論争から始まった新科学哲学
クーンのパラダイム論は、科学史および科学哲学に大きな衝撃を与え、その潮流を変えました。
クーンのパラダイム論以降に発達した科学哲学を、「新科学哲学」と呼びます。新科学哲学は、クーンを徹底的に批判することから始まりました。
まず、パラダイムの定義があいまいである*と非難されました。[*クーンは、パラダイムの定義に、主要な理論、世界観、理論に基づく研究方法などさまざまな要素を含ませ(前回)、文脈によって使い分けている]
そこでクーンは、パラダイムという言葉を撤回して、厳密に規定した別の言葉(専門母型)で置き換えました。しかし、この言葉は全く流行しませんでした。このため、「クーンはパラダイム論を撤回した」と考える人々が現れ、現在でも存在します。
しかし、これは誤解です。クーンは用語の不備を正してパラダイム論を強化しようとしたのであって、パラダイム論を取り下げてはいません。
さらに新科学哲学では、クーンが唱えたようには理論の転換が起きないと論じられ、科学理論が生まれるさまざまなモデルが提唱されています。
生き残ったパラダイム論のエッセンス――科学者の実像
以上のように、クーンのパラダイム転換モデルは厳しく批判されています。
しかし、現実の科学の世界には、確かにパラダイムが存在し、科学者は通常はその枠の中で研究しています。例えば、インフレーション宇宙論(第5回)を最初に唱えた佐藤勝彦は次のように述べています。
「インフレーション理論は・・・宇宙初期を考えるときの標準的なパラダイムになっています。『パラダイム』とは、完全に証明されたわけではないけれども、ひとつの学問分野として研究者たちがそれを信じて研究を進めているものと理解していただければよいと思います」[佐藤勝彦著、『インフレーション宇宙論―ビッグバンの前に何が起こったのか』講談社(2010年)71ページ]
現在も、最先端科学が進歩するのに、パラダイムの枠内で通常行われている研究が重要な役割を果たしているのです。
【まとめ】
- クーンは、科学者集団の多数が受け入れることによってパラダイム転換が起きると論じたために、科学を人間の「集団心理」や「多数決」に還元する相対主義者、非合理主義者であると非難された。
- しかしこれは見当外れである。クーンは、「科学は観測データと論理によって絶対的な真理を目指して発展してきた」と絶対視する「科学の虚像」に反対したにすぎない。
- クーンのパラダイム転換モデルは厳しく批判されている。しかし、現実の科学の世界では、パラダイムが存在し、科学者は通常はその枠の中で研究している。
【次回以降】
- 現在の脳科学の分野で解決が困難とされている問題(特に「意識がどのようにして脳に生じるか」)を紹介し、さまざまな仮説に基づく説が提起されていることを数回に分けて説明します。
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