前回、20世紀末に複雑系の科学によって、生命現象では創発が重要な役割を演じていることが明らかにされ、要素還元論が崩壊するとともに目的論が復権したことをお話ししました。
今回は、人体は「カオスの中に存在する秩序」を利用して外乱に柔軟に対応していること、さらに人の脳はカオスを利用して記憶などを行っていると推察されていることを説明します。
【今回のワンポイントメッセージ】
- 生命活動の根源には、未来予測が不可能なカオスが存在する。
生体のカオスと健康
健康な人の心拍、脳波、血圧、眼球の運動などの生理活動には不規則な揺らぎが存在し、不健康な状態になると揺らぎが減少して規則的になることが明らかにされています。人の心拍は、健康時には不規則な変動をしていますが、心不全に陥ると規則的になるのです。
生体で生じているこれらの揺らぎは、ただ乱雑に揺れ動くのではなくカオス(第12回)現象に由来する「カオス的揺らぎ」であることが示されています。
従来は、病気は身体の状態の一定のリズムが崩れるために起こり、生体は状態が乱れると元の規則的な状態に戻すことによって健康を維持していると考えられていました。このような常識的な見解が覆され、健康な生体はカオスにあふれており、これによって外乱に対して柔軟に対処していることが判明したのです。
カオスによって外乱に対処するメカニズム
では、生体はカオスのどのような性質を利用して外乱に対処しているのでしょうか。大気の対流をモデル化したローレンツモデル(第12回)におけるカオス状態で説明しましょう。
ローレンツモデルでは、対流の速度や温度などに関連する多くの変数に関する複雑な「流体力学の方程式」を単純化して、たった3つの変数X、Y、Zに関する方程式にまとめられています。ローレンツモデルのカオス状態で計算された大気の状態を表す点(Ⅹ、Y、Z)が時間とともに描く軌道を図1に示しました。
点Aから出発した軌道は、フクロウの目のような二つの渦巻きからなる不思議な図形を描きます。右側の渦をぐるぐると何回か回ってから左側の渦を描き、また右側の渦を描き・・・というふうに、状態は無限に左右で渦を描き続けます。
ここで、系に外乱が加えられ、初期条件が大きく違う状態、すなわち点Bから動き始めたとしましょう。しばらくすると必ず元の「フクロウの目」のような軌道に引き寄せられて、前と同じように無限に左右の渦を描き続けます。
このようにカオス状態の軌跡が引き込まれる「渦巻き状の不思議な図形」をストレインジアトラクターと呼びます(ストレインジは「不思議な」を、アトラクターは「引き寄せるもの」を意味します)。
カオス状態にある系で、外乱が加えられ大きく異なる条件(図1ではB点)から出発しても状態の軌跡は元の場合(A点)と同じストレインジアトラクターに引き寄せられ、有限の大きさで渦を描きます。それゆえ、カオス状態にある系にどんな外乱が加えられてもやがて有限な範囲内でしか乱れなくなります。カオス(混沌)といえども、そこにはこのような「秩序」が内在するのです。
こうした「カオスに内在する秩序」を利用して、生体は外乱を受けても「有限な範囲内で揺らぐ」状態を保つことによって健康を維持しているのです。
ところで、車のハンドルの「遊び」は、小さな外乱が車軸に伝わらないようにして走行の変動を抑えています。従って、大きな外乱がハンドルに加えられると車は暴走します。一方、生体は大きな外乱が加わっても暴走しないよう、カオスを利用して巧みに対処しているのです。
脳の活動とカオス
脳の機能にカオスが密接に関係していることが明らかにされています。
例えば、ウサギにいろいろな匂いをかがせた時の脳波に関する研究から、ウサギは一つの匂いに一つのカオスを対応させて記憶していると推察されています。また実際に、脳内で記憶や学習をつかさどっている海馬といわれる器官の活動電位や、神経細胞が発する電位でカオスが認められています。
人間の脳にはニューロン(神経細胞)が約1千億個存在し、一つのニューロンあたり数万のシナプス(結合部)があります。ニューロン同士がシナプスを介して複数の他のニューロンと複雑に結合してニューラルネットワーク、すなわち神経回路を構成しています。この神経回路という複雑系では、カオスを利用して記憶などの脳活動を行っていることが明らかにされているのです。
20世紀末に、コンピューターとコンピューターシミュレーション技術、さらに各種の生体計測技術――磁気共鳴画像法(MRI)、脳(磁)波計測法など――が著しく進歩しました。その結果、脳のどの部位でどのような情報処理が行われて記憶や学習などの脳活動が行われているかが明らかにされました。また、カオス理論を取り入れた脳活動のモデルが作られています。
しかし、同時に未解決の難問が山積することも明らかにされました。例えば、コンピューターでは不可能なことが脳にできるのはなぜかという問題があります。またカオスに基づくモデルを作っても、あくまでもシミュレーションにすぎず、実際の神経回路でどのような仕組みでそのような事象が創発されているのかは全く分かりません。
しかし、難問といえども着々と研究を進めていけば、やがて解決されるだろうと期待することができます。ところが、このような“難問”をはるかに上回る大問題が脳科学に存在することが、1990年代に自覚されるようになりました。それは、物質で構成されている脳で起きる物理・化学反応から、非物質の(物質ではない)意識が生じるのはなぜか、という問題です。これについては本シリーズで後ほど取り上げます。
【まとめ】
- 健康な人の生理活動(心拍、脳波など)にはカオス的揺らぎが存在し、不健康になると揺らぎが減少して規則的になる。
- 「カオスに内在する秩序」――外乱が加えられても状態の軌跡は同じストレインジアトラクターに引き込まれるので有限の範囲でしか変動しない――を利用して生体は外乱に対して柔軟に対処している。
- 脳活動の根源にはカオスが存在していることが明らかにされ、脳のどの部位でどのような情報処理が行われているかが解明されているが、未解決の難問が山積している。
【次回以降】
- 近代科学の先駆者であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイの意外な実像を明らかにし、科学の本質を考察します。
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