年齢を超えて多くの方々と話をしていると感じることがあります。それは、どうも他者の曖昧さを認めることができない人が多いということです。そして、人を「白」「黒」、「良い」「悪い」で評価してしまう傾向が強いのです。ですから、どうも肩がこってしまいます。このような方々は、人の曖昧さに強いストレスを感じているようです。
私は、ある学校の学生たちに一つの事例を紹介しました。それは、こんな話です。ある人が友人の家に遊びに行きました。その家で予定の時間をオーバーしてしまい、夕食をご馳走になることになりました。そこで、夕食を一緒に作ることになったのです。早速、夕食に必要な食材を購入し夕食の準備を始めました。やがて、何品かのおかずが完成し、食卓が豊かになりました。しかし、その食事の準備の過程で味見用の小さなお皿をうっかり落としてしまい、壊してしまったのです。私は、このケースについて「あなたならどうするか」「あなたならどう考えるか」「どのように対応するか」を訪ねました。
すると学生たちは、口々に「当然弁償すべきだ」「人の物を壊したのが悪い」と判断を下したのです。私は驚きを感じました。彼らの思考パターンは、「良い」「悪い」、「白」「黒」しかないばかりか中間がないのです。そればかりか、人の失敗を許し、良しとする理解や受け止め方がないのです。人の「曖昧さ」を承認し、受け止めることができないのです。
このような思考を断定的思考と言います。断定的思考は、「100%」か「0%」しかありません。最近、「勝ち組」「負け組」という言葉を耳にします。この表現も断定的思考パターンです。人生に勝ちも負けもありません。皆、精一杯多く重荷を担い、曖昧さと戦いながら生きているのです。このような思考で育てられ、関わられた子どもたちはどうなるでしょうか。
自分の感情を抑圧し、「愛されるため」「受容されるため」相手に一生懸命に合わせてしまいます。このような人々の特徴は、物事に協力的でチームワークに適しています。一見、人間関係も問題がなさそうに見えます。しかし、自分が「受容されていない」「愛されていない」「評価されていない」と感じると落ち込みがひどくなり、抑圧気分になってしまいます。また、「悪いのは全て私なのだ」という思考にもなってしまいます。私たちは、協調性の意味を再確認する必要があります。何より大切なことは、自分も人も曖昧な存在であり、その曖昧さをそのまま受容されていることを知り、体験することです。
イエス・キリストは、弟子たちの失敗の生涯と曖昧さを受容しながら愛されました。弟子たちの代表者であるペテロの生涯にその姿が表れています。主イエスにどんなことがあっても従う決心をしていたペテロ。そのペテロが主イエスに、「引き下がれサタン」と強烈な言葉を浴びせられる経験をしました。また、主イエスを裏切り逃げ出しました。そのペテロの曖昧さを受容し、それでも「私を愛するか」と問うて下さった主イエスがおられます。主イエスも曖昧さを良しとして下さったのです。
私たちは、互いの曖昧さを受容できる者とさせていただいているでしょうか。自分の思考を点検してみることをお勧めします。
■ こころと魂の健康: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。