男あるいは女がもし、頭またはあごに患部が生じたならば、 祭司はその患部を見なければならない。もしそれが皮よりも深く見え、またそこに黄色の細い毛があるならば、祭司はその人を汚れた者としなければならない。それはかいせんであって、頭またはあごの重い皮膚病だからである。 また祭司がそのかいせんの患部を見て、もしそれが皮よりも深く見えず、またそこに黒い毛がないならば、祭司はそのかいせんの患者を七日のあいだ留め置き、 七日目に祭司はその患部を見なければならない。そのかいせんがもし広がらず、またそこに黄色の毛がなく、そのかいせんが皮よりも深く見えないならば、 その人は身をそらなければならない。ただし、そのかいせんをそってはならない。祭司はそのかいせんのある者をさらに七日のあいだ留め置き、 七日目に祭司はそのかいせんを見なければならない。もしそのかいせんが皮に広がらず、またそれが皮よりも深く見えないならば、祭司はその人を清い者としなければならない。その人はまたその衣服を洗わなければならない。そして清くなるであろう。 しかし、もし彼が清い者とされた後に、そのかいせんが、皮に広くひろがるならば、 祭司はその人を見なければならない。もしそのかいせんが皮に広がっているならば、祭司は黄色の毛を捜すまでもなく、その人は汚れた者である。 しかし、もしそのかいせんの様子に変りなく、そこに黒い毛が生じているならば、そのかいせんは直ったので、その人は清い。祭司はその人を清い者としなければならない。(レビ13:29~37)
私たちはキリストの打ち傷により癒やされ(参照・イザヤ53:5)、既に神の義とされています(参照・2コリント5:21)。つまり、汚れていないのです。何という素晴らしい恵みでしょうか。
しかし、私たちがこの恵みに安らげないのは、どんなときでしょうか。それは、私たちの考えが神様の御心と合致していないときです。そのときに、私たちの平安と安らぎは失われます。
神様の御心と一致しない考えは、私たちのうちで無意識に、習慣的に繰り返し生じている可能性が高いです。それを解決するためには、神様と深い関係を持ち、御言葉を求め続け、導いていただくことが必要です。
私は朝起きた直後や、何かに取り組んでいて集中しようとしているとき、また、全てから解放されて心理的な休憩を取ろうとしているとき、肉体的に疲れているときなどに、なかなか安息に入ることができず、イライラすることがあります。しかし御言葉の真理が私たちを自由にします(参照・ヨハネ8:32)。そういったときにこそ、神様の前に降伏し、明け渡して歩むことを選択するのです(参照・マタイ6:10)。
私は個人的に、次のような状況に直面したときに平安と安らぎを失いやすいです。しかし、御言葉を告白して神様の道を選択し続けることによって、素晴らしい自由と平安を体験し続けています。
● 神様に祈るが、聞かれているのか疑問に思い、何度も繰り返し祈るとき
神様は私たちの祈りを聞かれています。神様の御心と祈りが合うとき、その祈りは聞かれているのです。(参照・1ヨハネ5:14)
● 自分の思うようにビジョンを描けないとき
私は10代の頃、パフォーマンスを向上させるためにイメージトレーニングを頻繁に行いましたが、なかなかうまくいかなかったことを覚えています。しかしビジョンは本来、神様が私たちに内側から与えてくださるものです。自分で描こうと努力する必要はないのです。(参照・使徒行伝2:17)
● 御声を聞けているのか、分からないとき
どのようにして神様が語られるかを、あれこれ考える必要はないのです。心に平安が与えられているだろうかと考え込み、自分を責める必要もないのです。ただただ、神様が私たちに語られ、その御声を聞くことができると信じ、期待しましょう。(参照・ヨハネ10:27)
● 神様の喜ばれることをしたいが、その思いが強くて慎重になり過ぎるとき
私たちクリスチャンの賜物は、聖霊様が与えてくださるものです。その実として、私たちは平安を体験することができます。平安を常時体験できるということが恵みであり、私たちの通常です。つまり、平安を失ったときが赤信号のサインだということです。そこでいったん立ち止まることが大切です。(参照・ガラテヤ5:22)
● 完璧な選択をしようとするあまり、いつまでたっても前進できないとき
キリストの御顔と向き合うときまで、私たちは成長し続けるのです。つまり、完璧さを求めることより、成長し続けることに焦点を合わせることが大切です。(参照・ピリピ1:6)
● そもそも自分のメンタルに問題があると無意識のうちに考え、安らげないとき
私は幼少期からのさまざまな経験によって、メンタルがかなりやられていたと思います。つまり、そもそも自分のメンタルがおかしいという考えを持っていました。しかし、真実は異なります。私たちクリスチャンには既に、キリストのような心、考え、魂が与えられているのです。つまり、私たちのメンタルは既に、キリストのように正しく、正常にされているのです。(参照・1コリント2:16)
● あらゆるひどいことをしてきた嫌な相手のことが脳裏をよぎり、集中できないとき
赦(ゆる)しの意味である、許可し苦しむ選択をする。つまり、ひどいことをされた事実を受け入れ、あえて苦しむことを選択するときに、その問題に関わることから解放され、自由を体験できます。(参照・マルコ11:25)
● 休もうとすると、ひどい事をしてきた相手のことが思い浮かぶとき
その相手の良いところに焦点を合わせるだけでなく、神様が導かれるならば一日中でも、その相手の良いところについて考え続けるという覚悟が、私たちに自由を与えます(参照・ピリピ4:8)。自分の道は放棄するのです。
● たまにはいいだろうと考え、自制せず、食べたい物を食べようとするとき
悪霊が私たちの心や生活に入る隙を与えてはなりません。普段の生活から離れて休憩の時間に入るときにも、聖霊様の導きを信じ、期待して従い続けましょう。そこに自由と平安があるのです。(参照・ガラテヤ5:22)
● 自分がリーダーだから、自動的に相手は自分に従うべきだと考え、祈らずに御言葉で相手をコントロールしようとするとき
私は長い間、リーダーシップを求められたとき、立てられた権威に従うべきだとする御言葉を持ち出して、ただ自分に従うよう相手に求めました。自分のうちには平安がなく、ポジションを失うのではないかという不安と焦りだけがありました。
愛は自分の権利を手放します(参照・1コリント13:5)。同じチームメンバーの異なる意見、考え方を大切にして、聖霊様に一歩一歩導かれることを選択したとき、心に平安が与えられました。
● 周囲の人々を信頼できないとき
人間関係でひどいことをされた経験が数多くあり、人間不信に陥っていました。しかし信仰により、人々を信頼する愛を選択すると、平安が与えられました(参照・1コリント13:7)。
● 自分の思うように周囲の人々が動かず、イライラするとき
自分の思うように物事が進むことを期待し、相手をコントロールしようとするとき、私たちは平安を失います。私たちを癒やすのは人々の言動ではなく、キリストです。相手をコントロールしようとするのではなく、むしろ、どのようにしたら相手に仕えることができるかを考えましょう(参照・マタイ20:28、ローマ12:21)。相手を愛し、その最善を信じて信頼することによって、不信感に勝利して仕えることができます。
● 外出時に電気、ガスなどを消したか不安に感じ、イライラするとき
このような過度な不安を感じるときには、自分にキリストの心が与えられていることを告白します(参照・1コリント2:16)。問題は、電気やガスなどが付けっ放しかもしれないということではなく、過度な不安を感じている自分を、私自身が信頼していないことです。愛は自分を含め、全てを信頼します。
● 自分の思うように物事が進まないとき
私たちの夢やビジョンは、私たちがこの地上に生きている間に達成されるものだけとは限りません。むしろ、神様が与えられる夢やビジョンは、次の世代へと引き継がれるほどの大きなものです。
キリストが私たちに与えてくださった世界宣教のビジョンは、宣言された2千年後も継続されています。十二使徒として選ばれたユダの裏切りからも自由であったキリストは、その出来事をも益とされたのです(参照・ルカ6:16)。
● 避けて通れない問題に直面したとき
私たちがこの地上で生きている限り、必ずさまざまな問題に直面することになります。何も問題のない人生などあり得ません。非現実的な期待を抱いていると、私たちの平安は奪われます。この地上で生活する限り、問題は必ず起こるものだと受け入れることがむしろ、平安を受け取る知恵です(参照・ヨハネ16:33、ヤコブ1:2)。
さまざまな問題に直面したとき、御言葉を適用するとはどういうことか、私の体験から得た知恵をシェアさせていただきました。一人一人に特別な神様のご計画があります。私の信仰の旅は皆さんとは異なりますが、少しでも参考になればと思いました。
GOD BLESS YOU!
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