あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。 (ルカ7:36~38)
ある罪深い女性がキリストの足元にへりくだり、その足に口づけして高価な香水を注ぎました。キリストを信じて多くの罪が赦(ゆる)され、大胆にキリストを礼拝し、香油をささげたのです。
キリストの御前にへりくだることを妨げるものは何でしょうか。神様はへりくだる者に恵みをお与えになります(参照・ヤコブ4:6)。この女性は人目を気にせず、キリストの足元にへりくだりました。自力で何とかなるという私たちの高慢な態度は、神様の恵みから私たちを遠ざけます。
最も危険なのは、無意識のうちに自分は大丈夫だと高をくくることです。実際のところ私たちは、キリストなくしては何もできないのです(参照・ヨハネ15:5)。私たちがへりくだるとき、神様は私たちを通して素晴らしいことを成し遂げられます。この女性のように、私たちも大胆に主を礼拝する者として用いられるのです。
私たちの成長を妨げているものは何でしょうか。過去の人間関係で受けた傷によって、人を信じられなくなっていますか。自分にひどいことをした相手の名前を聞いただけでも嫌な感情を抱くでしょうか。「信じる」という言葉には、英語の聖書だけでも「信頼する」「信頼にあふれる」「忠誠心を持つ」「最善を信じる」などさまざまな訳があります。これらは、人を信じることが愛であることを示しています(参照・1コリント13:7)。
疑いの感情が湧き上がってくるような相手を信じることは、簡単ではありません。しかし、御言葉に従い、その人を信頼して忠誠心をもって接し、いかなる疑いの気持ちがあっても、最善を信じて任せることです。過去の傷を思い出させるような言動があっても、その人が良い動機で物事に取り組んでいることを信じるのです。
人に対するあらゆる懐疑的な考えの代わりに、信頼にあふれるという愛を選択するのです。それは、嫌なことを経験した人間関係であればあるほど難しいことです。しかし真実の愛は、愛することが難しい相手を愛するときに現されるのです(参照・ルカ6:32)。何よりも大切なのは、これらの戦いが目に見える人との戦いではなく、目に見えない悪魔との戦いであることを覚えることです(参照・エペソ6:12)。
同時に、自分自身を信じることについてはどうでしょうか。自分のこれまでの選択を信じることができていますか。自分に対する懐疑的な考えや姿勢は、自分を必要以上に追い込み、不安へと導き、ひいては普段の生活にも影響を及ぼすことになります。聖書は自分自身を愛するように隣人を愛しなさいと教えています(参照・マタイ22:39)。
今日も人を信頼する愛を選び続けましょう。この非常識な御言葉を、私たちがへりくだって信じ受け入れ、行動に移すことにより、神様は素晴らしいことを成し遂げられるのです。私たちの成長はキリストが戻られるまで続きますが、忍耐して小さな成長を喜び、自らを励ましながら御言葉に従い続けましょう(参照・ピリピ1:6)。
GOD BLESS YOU!
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