罪とは、どのような基準で決定されるものでしょう。他人に損害を与える事柄を罪というでしょうか。法に背くことを罪というでしょうか。悪い考えや良くない意識を罪というでしょうか。数多い罪基準があります。
聖書でいう罪とは、神の律法を守らないことをいいます。
1. 罪と律法
罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。(1ヨハネ3:4)
ギリシャ語原典から解くと、「罪を常習化している者は、誰でも『不法を行っているのです』。なぜなら『罪とは』神の命令とおきてである『律法』を破ることだからです」となります。
律法は、紀元前1500年のモーセの時代に、シナイ山で神が与えられたという歴史があります。十戒は、全世界で知られている律法の代表です。
律法については、レビ記や申命記に詳しく書かれていますが、主の命令とおきてと定めと戒めを守りなさい、守れば祝福されるが、守らなければ呪われる、神の民から断ち切られる、死ななければならない、などと書かれています。
しかし、律法を誰も守り通すことができなかったことで、「義人はいない」とイザヤ書は結論付けました。
「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7:7)
人は神の律法によらずして、正義や公義としての正しい基準を知ることはできませんでした。むさぼって(罪の常習化で)律法に逆らうことは良くないことなのです。
故に、罪を常習化する者は不法を行っていて、悔い改めない者は皆、律法違反者なのです。
2. キリストの現れ
キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。(1ヨハネ3:5)
ギリシャ語原典から解くと、「『キリストが』人として『現れたのは』、人の『罪を』背負って死に、人から『罪を取り除くため』であり、『キリストには』死刑に値する『何の罪も』無かったことを『あなたがたは知っています』」となります。
私たちが人間として最低限、キリストについて知るべき事柄は、①神の御子キリストは、②人の子イエスとして地上にお生まれになり、③死刑に値する何の罪もなかったのに、④全人類が負うべき罪と病を一身に背負われて、⑤十字架刑で処刑され、⑥死んだことです。
イエス・キリストが罪と病を負って十字架刑で処刑されたことで、イエスをキリストと信じる人々は罪の報酬としての死と、神から離れた不義による病から救われるというキリストの福音が実現しました。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」(イザヤ53:4)
紀元前700年の預言者イザヤによるキリストの受難預言では、キリストが人の罪を負って死ぬこと、キリストが人の病やわずらいも負うことを語ります。これはイエス・キリストの十字架刑を意味しています。
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ4:19)
私たちにキリストが現れたことで、信じる私たちは、律法違反の罪による死から救われ、信仰によって癒やしを体験し、キリスト・イエスにある栄光の富により、信仰によって恵み豊かな生活をすることができます。
キリスト・イエスが2千年前に地上に現れ、聖書と歴史に書き残され、今、私たちに現れたことの意味は、①私たちがイエスをキリストと心で信じて口で告白し、②罪から解放されて死から救われ、③天上においても地上においても、栄光の富を所有して奇跡を体験することなのです。
3. 義を行う者
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。(1ヨハネ3:6、7)
6節を解き明かすと「『だれでも』道であり真理であり命である『キリストのうちにとどまる者は』常習的な『罪を犯しません』。常識的な『罪を犯す者はだれも』道である『キリストを見てもいない』ので罪の道を行き、真理のキリストを『知ってもいないので』罪を悔い改めないのです」となります。
7節を解き明かすと「神の『子どもたちよ』、聖書を私的解釈する偽り者に『惑わされてはいけません』。信仰で悔い改め『義を行う者は』、御子『キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです』」となります。
私たちが生き方としてキリストを道とし、教えとしてキリストを真理とし、存在価値としてキリストを命とするなら、私たちは義を行う者であり、キリストと同じように正しいのです。
私たちが義を行う者であるなら、私たちはキリストを見ているし、キリストを知っているのです。
「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(1ヨハネ3:2)
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります」(1コリント13:12)
私たちが正しく生き、私たちの内にキリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となるので、鏡のように顔と顔を合わせてキリストを見ることになります。
まとめ
罪を常習化する者は不法を行っていて、罪を悔い改めない者は皆、律法違反者なのです。
しかし、キリストが現れたことで、キリストを信じる私たちは、律法違反の罪による死から救われ、信仰によって癒やしを体験し、キリスト・イエスにある栄光の富により、信仰によって恵み豊かな生活をすることができます。
私たちが信仰による義を行い、キリストと同じく正しいならば、キリストを見ているし、キリストを知っているのです。私たちの内にキリストが現れたなら、キリストに似た者となることで、私たちは顔と顔を合わせてキリストを見ることになります。
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