クリスマスとは、主イエス・キリストのご降誕を祝って礼拝するという意味です。聖書から、そのお方のご降誕から十字架の歩みまでを黙想し、主イエス・キリストがどのようなお方であられ、そして、どのような人々のためにこの地に来られたのかを共に分かち合い、主のご降誕と栄光を喜びたたえつつ、宣教の本来の在り方とを重ね合わせて考察していただければ幸いに存じます。
(1)大阪弟子教会の宣教の働き
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:10~12)
「大阪弟子教会は暴力団と癒着しとるんや」「あそこの教会の金沢いう牧師が元締めで、スタッフのもんが覚醒剤の売人やっとるんや」「毎日のように犯罪が起こって、教会にパトカーが10台も駆け付けるらしいで。ほんまコワい教会や」「大阪弟子教会は暴力団と半ぐれと薬物常習犯の巣窟やで」「女性信者の中には売春婦がたくさんおって、あっせんまでしとるらしいわ」などと、思わず笑ってしまうような話ですが、私たちは、世間からはこのように誹謗中傷され、時にはキリスト教会からも誤解されることがあります。
しかし、そのような事実はまったくありません。私たちは悪と結託しているのではなく、大阪府警、大阪府薬務課、厚生労働省麻薬取締官、法務省大阪保護観察所、警察庁暴力団対策課、大阪弁護士会などと連携し、神の栄光と御国の拡大を求めて、微力ながらも世に仕えているのです。
確かに、私たち大阪弟子教会では開拓以来、元暴力団や、覚醒剤などの違法薬物依存症者、アルコール依存症者、刑務所で服役した元受刑者など、そのような人々に対する伝道に力を注いでおります。しかし、それらの働きは、キリストのなされた、苦しみにある小さい人々に対する宣教のお働きに従っていることであると、確信を持って行ってきましたから、心無い人々のそんな言葉は、神様からの温かい激励の言葉であると受け止めております。
何かあったとき、荒くれ者を制圧するためのサスマタや、刃物から身を守るための防刃チョッキまで礼拝堂と教会事務室に常備し、また、厨房の包丁は放置せず、誰もが手に取れないよう常に管理しています。それらも通常のキリスト教会ではあり得ないことばかりであり、皆さんはきっと驚かれることでしょう。
聖書が語る小さい者とは、自分で自分を救うことのできない自力救済不可能な者であり、主イエス・キリストの大いなるヘセドの愛によらなければ救われることのない、憐(あわ)れむべき人々のことです。
私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(1コリント12:3)
事実、人は瞬間的に回心する場合もあれば、徐々に回心する場合もあります。特に、荒くれ者が罪を悔い改めて救いに至るまで、信仰がバックスライドし、時には事件が起きることも致し方のないことです。ですから、私たちには愛と忍耐と寛容が求められるのです。
私たちの教会のミニストリーの一つは、そのような世のアウトローの人々に対する伝道ですから、ある時には身の危険さえ覚えることもありますし、罪から離れて聖(きよ)く生きることを聖書によって教えると、彼らは、しようとする罪の行いができないが故に反逆し、ののしってくることもあります。また、再犯を起こして裏切られることも日常茶飯事です。しかし、それらは義のために受ける迫害と苦難であり、私たちは天国の希望を信じて、これからもこの使命を忠実に果たしていきます。
また、私たちの教会は、礼拝の厳格さを重んじていますが、まだ回心に至らぬ人が、その大切な礼拝を妨げ、教会の聖さを汚すこともあります。それを忍耐するとき、まず主イエス・キリストご自身が、彼らを救うために忍耐しておられることを思い起こすのです。
しかし、私たちは信じます。神の選びにあるならば、福音はその人々を救い、必ず回心へと導かれるのです。それこそが福音の絶対的力であり、私たちはその御力を頼りに宣教に励んでいます。
(2)キリストのご降誕と宣教のお働き
さて、主イエス・キリストのご降誕を聖書から見るならば、王の王、主の主と称される偉大なお方が、その権威にまったくふさわしくない生まれ方をされたことがよく分かります。
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らした。(ルカ2:7~9)
主イエス・キリストがお生まれになったその場所は、荘厳な王宮や神殿ではなく、とても不衛生な家畜小屋であり、寝かされておられたのは、何と家畜たちの餌箱でした。そして、その母であるマリヤは、名もなきただの小さな田舎娘でした。そして、救い主のこの喜ばしいご降誕を、初めに天使から知らされたのは、当時、最も卑しい職業の一つとされていた羊飼いたちでした。それ故、彼らは人類史上、誰も見たことのない神の栄光を、そこで目撃したのです。
このように、主イエス・キリストは、いと高き神であられながら、自らへりくだられて小さい者となられ、そして、この世の小さい人々のためにこの地に来られた、唯一の贖(あがな)い主であることが分かります。
次にイエス・キリストの宣教のお働きを見ると、このお方の御旨は正しく高貴な人々ばかりではなく、特に心の貧しい人々や、世間からのけ者にされた小さい人々に向けられていたことが分かります。
イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。(マルコ2:14)
ローマ帝国によって与えられた権限を振りかざして暴利をむさぼり、同胞から忌み嫌われていた取税人マタイ(別称レビ)は、裕福ではあっても、心の貧しい小さい者でした。キリストは彼の心の葛藤を見抜かれ、何とご自分の弟子となる召命をお与えになりました。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)
ザアカイは取税人の頭であり、地位も財産もありましたが、彼もまた心の貧しい小さい者でした。キリストはあえてエリコに立ち寄り、ザアカイの家に泊まる計画を立てられ、彼を見事に回心へと導かれました。ザアカイは救われて喜びにあふれ、心の在り方とその生き方まで変革されたのです。
さらに、主イエス・キリストは、生業によって世間的に貧しい立場にあった人々にとどまらず、病に苦しむ小さい者にも、愛の御手を差し伸べておられます。
そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」 すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」 すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(マルコ10:51~52)
エリコの町で、主イエス・キリストは、まさに小さい者であるバルテマイという名の盲目の物乞いを癒やされました。ご自身にすがりついて、何としても目が見えるようになりたいと懇願するバルテマイの切なる信仰を良しとされ、すぐさま彼の目は開かれ、そして、彼はキリストに従いました。
38年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5:5~6)
また、ベテスダと呼ばれる癒やしの池にいながらも、そこで38年もの間、寝たきりであった小さい者にも、主イエス・キリストは「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と仰せられ、彼の病を癒やされました。
そして、ここで注目すべきことは、安息日にこの癒やしの業をなされたことです。当時のユダヤ人は、安息日を厳守することに心がとらわれていましたが、主イエス・キリストは、神が定められた安息日も、全て人間の真の幸せのためにあることを宣言し、律法本来の意義を説き明かしておられます。
また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ。(ルカ8:2)
マグダラのマリヤは7つの悪霊に苦しめられていた、やはり小さい者でしたが、キリストは、一人の人間として慈しみ、彼女を悪霊から解放されました。マグダラのマリヤは売春婦であったといわれていますが、最も初めに、復活されたキリストの目撃者となった、一人の立派な弟子となりました。
主イエス・キリストは、このように多くの小さい人々を救い、癒やしと解放を与えられましたが、さらに、ご自身が卑しく小さい者になられ、十字架の死に進み行かれました。そして主は、その十字架上においても、一人の極道者を顧みて、救いをお与えになりました。その極道者は、磔刑(たっけい)に処されて悲惨な死を目前にした、これ以上ない小さな者であったのです。
「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:41~43)
キリストと共に十字架につけられた、悪の限りを尽くして救われる余地などまったくない2人の極道者のうち一人は主をののしりますが、しかし、もう一人の極道者は、死の直前に自身の罪深さを認め、自身のすぐ隣で十字架にかかり、血まみれになっているそのお方こそが救い主であると信じました。そして、キリストはご自身も十字架上において苦しまれながらも、その極道者を見捨てることをされず、彼の罪を赦(ゆる)し、パラダイスに招き入れる約束を与えられました。
このように主イエス・キリストは、神であられるにもかかわらず、小さい者としてお生まれになり、その生涯を通して、誰からも顧みられることのない小さい者や心の貧しい者に心を向けて救いに導かれました。さらに十字架上の死の直前においても、死刑囚という小さい者に救いを与えられたことが分かります。それは、私たちがこのお方の公生涯から悟るべき、死に至るまで忠実に自身の生涯を福音宣教にささげるという究極の模範なのです。
すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)
私たちは主を愛すると言い、主と出会うことを求めて祈ります。では、どこに行けばそのお方に出会えるのでしょうか。それは食べる物や飲む物にも事欠く人々のところであり、泊まる場所のない人々のところであり、そして、病床や牢獄(ろうごく)の中にあるこの世の小さい人々のところです。そのような人々に心を尽くして仕えるとき、そこに主がおられ、主と出会うことができるのです。
そのような、心の貧しい小さい人々に対する愛の行いこそが、尊い善行であり、それは王なるキリストに対して行ったことであると、聖書は教えています。
(3)キリストは誰のために来られたのか
私たちの教会には、ある意味普通ではない、小さい人々がたくさん来られます。ある時、全身に入れ墨をした元暴力団幹部の人が私たちの教会に来られました。その人は、初めは別の教会に行きましたが、そこではその暴力団丸出しの容姿を怖がられ、誰にも相手にされませんでした。しかし、私たちの教会に喜んでつながり、礼拝を厳守して神学生にまでなり、天に召されるまで伝道に励まれました。
また、死の間際に、覚醒剤と大麻を乱用してどうしようもない息子のことを、手を握り締めて私たちと主に委ね、天国に帰った一人の母親がおられました。そのどうしようもない息子は、救われて神学校に進みながらも自我と薬物癖によって志半ばで退学処分となりましたが、罪と戦いながらも、今は自分自身と同じ薬物依存の苦しみにある人々を支え、神と教会に仕えています。
さらには、刑務所と社会を行ったり来たりしていた、前科17犯のアルコール依存症の男性。東京でのホームレス生活から路傍伝道を通して救われた男性。腕利きの料理人であった過去を持ち、定住することなく放浪していた男性。約20年も神から離れて罪に溺れ、覚醒剤事件で逮捕されたことを機に、家族によって教会に連れ戻された男性。そして、大黒柱であった父の死によって、一家離散の危機に見舞われた母と姉弟・・・。人生のさまざまな苦境に立たされた彼らは、大阪弟子教会の内部に起こされたNPO法人リバイブ・ハウスの更生支援施設へと導かれ、どの人も信仰によって救われ、今は主にある平安を頂いています。
確かに、普通では考えられないような人々に対する宣教は、さまざまなリスクと労苦を伴います。しかし、このような人々を迎えることは、私たち大阪弟子教会においては、何のためらいもなく、まったく喜びでしかありません。なぜなら、それがキリストに倣うことであり、十字架を負ってキリストに従うことであると、私たちは確信するからです。
そのような人々全員が救われるものではありませんから、心悩ませる時があったことも事実です。しかし、主は祈りの中で「メジャーリーグの大谷翔平でも打率は3割であり、10打席のうち7打席は出塁できないのだ。それを考えれば、あなたがたは大谷翔平よりもよくやっているではないか」と優しく励ましてくださいました。確かに、この働きによって救われた人々の中には、牧師になった者、宣教に励んでいる者、会社を経営している者、幸せな結婚に恵まれて仕事に励んでいる者などもおり、それらの実りを思うとき、私たちはこの宣教に喜びを見いだすのです。
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
主イエス・キリストは、どんな罪人も救い、どんな病も癒やされる全知全能の医者のような存在です。そのお方を必要とするのは、自分は大丈夫だと慢心する者ではなく、自分自身の罪深さと愚かさを知る小さい人々であり、そのような人々を救いに招くために主イエス・キリストがこの地上にご降誕されたことを聖書は伝えています。そして、この聖句によっても、私たちは宣教の本来の在り方を知ることができるのです。
ですから、主イエス・キリストご自身こそが、神様が私たちに与えてくださった、何よりも大きく尊い愛のプレゼントなのです。クリスマスの良き日、その大いなるヘセドの愛と救いの恵みを思い起こし、ご自身が貧しく小さい者の姿をとって、私たちのためにこの地上に降誕された主イエス・キリストを心から喜び、共に褒めたたえようではありませんか。
小さき人々のために、主は来ませり。心からメリークリスマス!
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なお、大阪弟子教会では、このクリスマスメッセージに記載されている更生支援の働き(NPO法人リバイブ・ハウス)によって、刑務所施設からの出所者の身元引受人となって帰住先を提供しています。現在、法務省の要請に応じて更生施設を数カ所に増設する計画を進めており、そのご支援とご協力を求めております。また、この更生支援の働きに重荷と関心のあるクリスチャンのスタッフを募集しております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
■ NPO法人リバイブ・ハウス
〒542-0072 大阪市中央区高津1-3-6 JDCビル4F
電話:06・6191・6701、FAX:06・6191・0702
メール:[email protected]
<献金振り込み先>
ゆうちょ銀行
店名:四〇八(ヨンゼロハチ)店(店番:408)
預金種目:普通預金、口座番号:2549476
記号:14020、番号:25494761
名義:トクヒ)リバイブ ハウス
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