イエス・キリストは、なぜそこまで十字架で苦しまれたのでしょうか。
肉体の苦痛は言うまでもありませんが、それ以上に、罪を知らない方が罪となり、罪を裁かれたとき、父なる神はイエス様を見放し、容赦なく苦しみに引き渡されました。
「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります」(詩篇22:7)
人々は口をとがらせ、頭を振りながらイエス様をあざけり、さげすみました。弟子であるイスカリオテのユダはイエス様を裏切り、祭司長や律法学者たちをはじめ、ヘロデ王も民衆も、野蛮にもイエス様を嘲弄(ちょうろう)し、身の毛もよだつような振る舞いをしました。
それが人の罪の本質であり、表れなのです。そこまでキリストが苦しまれなければ、人間の罪を贖(あがな)うことができなかったのです。
牧師の働きをしながら、聖書の真理を語り、聖書通りの対応をしたことで、人々の心の奥底に潜む自己中心さや醜さ、ズルさを見せられた経験が何度もあります。
失望し、絶望し、怒りを感じましたが、同時に「なるほど、だからイエス様はここまで苦しまれなければならなかったか」と納得させられました。人々の持つ罪の性質は、底無しに醜く、恐ろしいものです。
普段はそれを目にする機会はあまりありません。白く塗った墓のように、きれいに塗り固められているからです。罪の本質は、光が当てられたとき、何かがきっかけとなって突然表れるのです。
これは他人事を話しているのではなく、全ての人が持っている性質なのです。クリスチャンだからと、安易に人を信じて騙された経験のある人がいると思います。しかし驚くには及びません。それは聖書にも描かれているし、私たちも同じ性質を持っているのです。
人々の善意を信じたいてすし、クリスチャンの中に、本当に美しい性質の実が実っているのを見ることがあります。しかし、工事中なのです。その工事は主とまみえる日まで続きます。
そして、どんなに罪の性質が大きくても、イエス様の十字架によって赦(ゆる)されない罪はないし、きよめられない罪はありませんので、そのままの姿でイエス様のもとに行きましょう。その時、イエス様の苦しみの理由が分かり、感謝が湧き上がります。そして、その感謝が伝道の原動力なのです。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:10〜14)
後者の、主によって高くされる生き方を選びたいですね。
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