神様は公平な方だと思いたいですが、実際は一人一人に不平等な環境を与えられています。
ある人は億万長者の親の元に生まれるのに、ある人は極貧で、借金地獄の親の元に生まれます。ある人は権力があり、身分の高い親の元に生まれるのに、ある人は身分の低い親の元に生まれます。
「家が貧乏で、片親で、まともな職に就いていなかった。私も同じような環境だ。世の中はお金が全てだ。結局、神様は不公平で不平等だ」と嘆きながら相談に来られる人がいます。その話を聞いていると、「神様は公平で平等な方ですよ」と簡単には言えません。
確かに神様は、不公平で不平等な扱いをされているといえます。しかし、それにもかかわらず、神様は公平で平等な方です。
賛美歌の一節に「多くの苦しみ味わったから 同じだけの慰めがある」という歌詞があります。少しの苦しみを味わったら、その苦しみを慰めるための少しの慰めが与えられます。しかし、多くの苦しみを味わったなら、その大きな苦しみを慰めるために、多くの慰めが与えられます。
エリートの環境の家庭に生まれた子どもは、免疫が乏しく、ちょっとした失敗で大きな挫折を経験してしまうことがあります。貧しく、苦労の絶えない環境で生まれた子どもは、打たれ強く、踏まれても踏まれてもまた生えてくる雑草のようなワイルドさがあります。
悲しみが大きかった分だけ、それが喜びに変わったときには、何百倍の喜びを経験できるものです。ピンチに直面したとき、そのピンチをチャンスに変えて、打開することができたときには、その報いは大きいものです。
川を泳いで渡ったとしてもニュースにはなりませんが、たまたまそこに溺れている人がいて、その人を助けたらニュースになりますし、命を助けた恩人として表彰されます。
何が幸か不幸か、簡単にいうことはできません。各論的には、神様は私たちに「不公平」「不平等」な対応をされることはあっても、総論的に見たら「公平」「平等」な対応をされるのです。
不幸の原因、諸悪の根源は、「木を見て森を見ない」ように物事を各論的にだけ見て、自分と人を比較して、劣等感や優越感を持つことにあります。各論的に物事を見るときにも、それを優劣ではなく、違いとして受け入れ、総論的に神様はちゃんとバランスを取ってくださっていることを信じ、自分に与えられているものに対して感謝し、自分の道を歩んでいきましょう。
あなたに与えられた道が一番なのです。これが真理です。そして「真理があなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書8章32節)。
「真理はあなたたちを自由にする(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ、ヘー・アレーテイア・エレウテローセイ・ヒュマース)」(ヨハネによる福音書8:32)の言葉は、国会図書館に書かれています。
本当の勉強は、真理を探求することです。その真理が人を自由にし、幸せにするのです。神様が、不公平、不平等を与えているように見えることはあります。しかし、にもかかわらず、神様は公平、平等であり、あなたに与えられた道があなたにとって一番であると知ってください。
アニメの「天才バカボン」は、「これでいいのだ!」が口癖です。皆さん「これでいいのだ!」と、あなたの人生を完全肯定してください。これでいいのです。そして、これこそが最高・最善なのです。
その極致までいける人は、神様は逆の意味で不公平・不平等な方だと感じるでしょう。
「神様は、誰よりも私を祝福してくださった!」と。
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