あなたはきっと「人に対して優しい人でありたい」と思っているのではないでしょうか。しかしその優しさのあまり、人の言動に振り回されたり、一緒に悩んで苦しみを背負い込んでしまうと、あなた自身がつぶれてしまいます。
ある心優しい人が、うつ病になった人に寄り添ってあげていました。その苦しみに耳を傾け、共感し、苦しみを背負ってあげているうちに、うつ病の人よりもっとひどいうつになってしまいました。
プロの心理カウンセラーは、相手の苦しみに耳を傾け、受け入れ、共感しても、それを決して背負おうとはしません。そうじゃないと、今度は自分がカウンセリングをしてもらわないといけない状態になってしまうからです。
私が牧師として担っている仕事の一つは、毎日、家族や教会員、関わっている人のためにお祈りすることです。場合によっては、多くの時間を割いて祈ることもあります。気が付いたら「この方の病気や苦しみを代わりに背負わせてください」という気持ちになることがあります。
しかしそのように祈っていたとしたら、私自身がつぶれてしまいます。私は救い主ではないからです。私たちの代わりに病気や苦しみを背負われたのはイエス・キリスト様です。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:3〜5)
私たちは、苦しんでいる人のそばに寄り添い、その荷を代わりに背負って「少しでも荷を軽くしてあげたい」といくら思っても、10キロしか持つ力のない人が千キロの荷物を持ち上げようとしているようなもので、相手を思う愛の故に「火事場のばか力」のように、自分の限界をはるかに超えた力も一瞬なら出るかもしれませんが、じわじわとあなたを押しつぶしてしまいます。
どんなに愛している人でも、死のトンネルを一人で歩いていかなければなりません。しかし、そのトンネルを一緒に歩いてくださる方がいます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23:4)
10年前、遮断機の下りた踏切の中で倒れている男性を助けるために、電車にひかれて亡くなられた女性がいました。私は、この勇気ある行動に心を痛めつつも感動しました。とても尊いものだと思います。まさしく愛の心から出た行動だからです。
優しさを感じることが少ない時代になりました。しかしそんな時代の中で、あなたの優しさは寒い夜空に輝く星のように光っています。「できること」と「できないこと」を見極めて、優しさを広げていきたいものです。
先ほどの女性のような、命を懸けた優しさを表すことは、普通の人にはできません。しかし、ちょっとした優しさでいいのです。その優しさが社会の一部を温めてくれます。そして、その優しさは広がって、社会全体を温めていくかもしれません。
大切なのは、大きなことをやろうとしないことです。今この時、目の前にいる人に、あなたにできる優しさを表していきましょう。
あなたの優しさを受けた人は、どれだけうれしいでしょうか。その人の喜びのために仕えられたら、何と幸せなことでしょうか。
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