「保育で大切なこと」と保育の構造
前回、保育において大切なことは、子どもたちの「自己肯定感を高める」ことであり、そのための方法として、「肯定的な言葉をかける」「失敗を許容する」「自己表現を促す」「適切な挑戦を提供する」の4つがあることを紹介しました。また、これらを行う前提として、子どもの前に立つ「謙虚な姿勢」が必要であり、保育の基本は、子育ての「第一義的責任」を負う保護者に対する「伴走支援」であることも話しました。
さて、保育とは上図のような構造で成り立っています。「養護」とは、子どもに対する支援を指します。0歳児であれば、一人では何もできませんので、保育のほぼ全てが保育者による支援(擁護)で成り立っています。しかし、子どもは成長するに従い、できることが増えていきます。そのできることを伸ばし、確定させていくことが「教育」になります。そして、子どもがある事柄をできるようになると、その部分の養護は消えていきます。
例えば、ハイハイができるようになると、「おいで」と声がけをすれば来るようになります。そのため、一定の距離では抱き上げず、呼びかけで来るようにしていきます。このことによって、体幹が鍛えられ、次の発達へとつながっていきます。また、呼びかけに応えるようになったら、「かわいい、かわいい〇〇ちゃん」と声をかけ、手を上げることをまず教えます。当然、手を上げたら目いっぱい褒めてあげます。
保護者には、子どもができるようになったことを伝えるとともに、それを喜び、楽しむ仕組みも提供します。こうした具体的な方法を伝えれば、保護者も家庭でそれを実践することができ、わが子の成長を体感することができるでしょう。これが「保護者に対する保育に関する指導」です。家庭の子育てを先導しつつ、伴走支援のサイクルを築いていくのです。
今回は、保育における具体的なアドバイスを幾つかお伝えしつつ、「保育において求められること」についてまとめたいと思います。
全てには名前がある
まず、ちょっとしたエピソードを紹介します。米国留学帰りのアルバイトが事務処理を手伝っていたとき、年配の事務員に「振込割賦をちょうだい」と言われ、混乱しました。そのアルバイトは「割賦」という言葉を知らなかったのか、「カップですか?どんなカップですか?」と聞いたそうです。どうやら、コーヒーカップのようなものを想像したらしいです。
さて、子どもたちの前でよくやってしまう間違いに、まちまちの呼び名を使ってしまうことがあります。「カップ」「コップ」「マグ」・・・。同じ物であっても、保育者一人一人で呼び方が違ってしまうことがあるのです。子どもたちの頭の中では、その度ごとに名前が置き換えられてしまい、その違いが分からず混乱してしまう子もいます。
私の娘が3歳の時、自分の父親が、自分が通う保育園の園長であることを、初めは理解することができませんでした。私に向かって「ねえ、お父さん、保育園の園長先生って面白いんだよ」と自慢げに言っていたことを思い出します。
ですから少なくとも園内では、あらゆるものの名前を統一しておくことが望ましいです。そしてもう一つ大事なことは、子どもへの指示は簡潔にすることです。長くなればなるほど、文法の曖昧さが出てきます。その結果、指示した内容と違う間違った行動を起こす確率が増えてしまいます。すると、保育者の口から出るのは、「違う、そうじゃないでしょ!」という言葉にならざるを得なくなってしまいます。
死人テスト
保育施設に対するコンサルテーションなどで、満3歳以上児クラスに関わると多く見かけるのが、指示出しのまずさです。「死人テスト」や「デッドマンテスト」と呼ばれるものが、それをチェックするときの指標になります。
「穏やかじゃない名前だな」と思う人もいるかもしれませんが、ある意味正解です。このテストに通過しない指示を多用すると、子どもたちは自己肯定感を高めることができなくなるからです。これは「死人でもできることは指示とは言わない」というルールに基づく、保育者・保護者の行動指標です。つまり、生きている人にしかできない行動を示すことが必要だということです。
私が学校に通っていたときは、校内に「廊下は走らない」という壁紙があちこちに貼ってありました。しかし先日、わが子の学校に行ってみると、壁紙が「廊下は歩きましょう」となっていることに気付きました。これは、死人テストに照らして改善されたものです。どういうことかというと、「廊下を走らない」は死人でもできることなので、指示ではないということなのです。実際、私も子どもの頃、「走ったらダメ」と言われると、「じゃあ、スキップは?」などとからかっていたものです。ですから、もっと具体的な指示にしなければなりません。つまり「廊下は歩く」ということです。
よく考えてみれば、「盗むな」「嘘をつくな」「友達をたたくな」「けんかするな」など、世の中には禁止事項がいっぱいあります。そして、何か問題が起こる度に禁止事項は増えていきます。すると、子どもは不満を覚え、それを回避することを考えます。そうなると、いたちごっこです。そして最後には、大人の方が根を上げてしまいます。そして言うのです。「あの子には注意が必要だ」「発達障害だ」と・・・。
しかし、死人テストを使って考え直すと、自分たちの指示の出し方が間違っている場合がほとんどなのです。そしてそれこそが、自分たちの自己肯定感の低さを表していることに気付かされるのです。
行動とは積み木のようなもの
保育の上手な保育者は、一つ一つの行動を細切れに教えていきます。例えば、ズボンの履き方だったら、まずは足を入れるところを教え、それができたら褒め、次はズボンをおなかのところまで引き上げることを教え、それができたら褒めと、できたことを土台に次の段階へ進むように教えていきます。若い保育者などは、欲目からか一気に教えようとしてしまいますが、一つの行動を小さなパーツに分け、積み木のように積み重ねるようにして教えていきます。
月齢によって頭に入れておける指示の数には限界があります。通常3歳で3~5つが精いっぱいです。いろいろできるようになったら、3~5つの動作を1つの行動にまとめます。例えば、「1番、カバンからお手拭き入れを出します。2番、お手拭きを濡らします。3番、お手拭きをテーブルに置きます」という具合です。指を使って数えながらやると、なお効果的です。
子どもの感情に寄り添う
子どもは大人の顔色を絶えず見ています。そしてそれによって、人間の感情を理解します。まず初めに理解するのは、喜びです。自分がうれしいことを表し、共に喜んでくれることを求めます。そのため、生まれてすぐから赤ちゃんには「微笑反応」という反応が備わっています。ですから、子どもが喜んでいるのを見たら、一緒に喜んであげましょう。
次に出てくる感情は、悲しさです。寂しい、不快などの思いです。そして、怒りや楽しさという感情が芽生えてきます。それらをしっかり受け止め、寄り添ってあげることがとても大切です。そうすることで、子どもは自分が受容されていることを実感できるのです。
最後に、この4回の連載を通して話してきた「保育において求められること」を、端的に言い表している聖書の言葉を紹介します。「人」を「子」に、「身分の低い人々」を「幼い子どもたち」などに置き換えると、よりしっくりすると思います。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章15~18節)
(続く)
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