若者たちに巣食うモノ
昨今、若者たちの突飛な行動がSNSなどで拡散し、問題視されています。そんな現状を見ていると、何となく悪霊の仕業か?なんて思ってしまいますが、果たしてそうなのでしょうか。そんな思いで聖書をめくっていると、こんな奇跡の場面に出会いました。
一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐(あわ)れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」
そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(新約聖書・マタイによる福音書17章14~18節)
ここでは、悪霊の存在が示されていますが、てんかんとは、無論、悪霊とは関係のない病気です。今では医学的な名称が付き、それに対する医学的な薬や対処法も確立されています。もし、こうした病気や障害を全て「悪霊の仕業」と断言するのであれば、病人や障害者は皆、悪霊に取りつかれた人ということになってしまいます。
障害児・者の支援に当たる私は、この聖書の箇所を読んだとき、「悪霊はその子だけに取りついていたのか」と疑問を持ちました。
イエスはここで、「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と話されました。
このイエスの叱責の言葉は、「悪霊を追い出すことができなかった弟子たち」に向けられたものであって、その親子に向けられたものではありません。そのことを考えれば、悪霊はその子を取り囲む大人たちにこそ巣食っていたのではないだろうかと思うのです。つまり、若者に巣食うモノは、私たちの不信仰そのものではないかと思うに至ったわけです。
75年前と現代
前回、幼児の発達に関して、その子に障害があるないにかかわらず、保育施設には保育施設のやるべきことがあることをお伝えしました。今回は、保育が忘れてきたもの、失っているもの、そして、期待できなくなったものについて考えてみましょう。
まず、75年前と現代の違いを考えてみましょう。
1. 圧倒的な出生率の違い
- 75年前:戦後すぐであり、どの家庭も多産傾向にあった。
- 現代:核家族化が進み、一人っ子家庭が増大した。
2. 地域の子育てリソースの減退
- 75年前:兄や姉、親戚、近所の人が、子どもの面倒を見るのが当たり前だった。
- 現代:地域の人間関係の分断などから、子どもの面倒を見合う環境が激減した。
3. 大人の世界と子どもの世界の断絶
- 75年前:子どもであっても、成長度合いに応じて労働力としての働きが求められるなどした。
- 現代:子どもは子どもとして扱われることが大前提で、大人の世界に踏み入る機会が少ない。
4. 「子どもの社会」の存在
- 75年前:年上の子が年下の子の面倒を見るのが当たり前で、「子どもの社会」があった。
- 現代:施設や大人が子どもの面倒を見ることが当たり前で、「子どもの社会」が激減した。
上記のように、大きく分けても4点が考えられます。これらを考え合わせて出てくる問題が、これから課せられていくであろう保育の課題ということができます。
この75年間で社会が失ったもの
この75年間で社会が失ったものは、とても大きな損失でした。「この20年ほどで、高校生や大学生の姿が中学生の延長みたいになっている」という愚痴を、高校や大学の先生から聞いたことがあります。さもありなんと私は思います。生まれてこの方、横割りのクラスばかりの付き合いを強いられ、大人の世界をほとんど見せられず、大人の求めを忠実にこなすことだけを求められ続けた子たちに、「個性がない」「主体性がない」「子どもっぽい」と文句を言っても仕方がないでしょう。
保育界や教育界はこれまで、社会や家庭の保育力を当然のものとして捉えてきました。そして、子の教育は親や保護者に第一義的責任があると見なしてきました。しかし、実際にはそんなものはとうの昔に消え去っていたのです。いくら親が優秀であっても、子どもが社会生活で必要となること全てを身に付けさせることは不可能なのです。
子の教育に対する第一義的責任
2006年の教育基本法改正で、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」(同法第10条「家庭教育」)との条文が盛り込まれました。
この条文によれば、子の教育について「第一義的責任を有し、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努める」のは、「父母その他の保護者」であるとされています。しかしながら、それを全ての親ができるわけもなく、そのため、10年ほど前から「家庭教育支援条例」なるものが、幾つかの自治体で採択されたりしました。
そして、親や保護者は「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図る」に足る知識と技術を身に付けなければならないわけですから、日本家庭教育学会という団体が、「家庭教育師」や「家庭教育アドバイザー」なる民間資格を提供したりしています。
しかし、児童福祉法で「保育士とは(中略)専門的知識及び技術をもつて、児童の保育及び児童の保護者に対する保育に関する指導を行うことを業とする者」(同法第18条の4)と定義されているとおり、実際には保育士がこの職務に該当する国家資格になります。
現実問題として、「では、75年前の状況と全く異なる現代では何をすべきか」ということになりますが、求められるのは、保育施設における直接保育に加え、親や保護者に対する伴走支援(間接保育)や情報提供、そして地域コミュニティーの再建ということになります。
特に壊滅的なのは、家庭や地域が関わる部分です。昔のように子育て世帯が住む地域に親類縁者がいることは少なく、ガキ大将を中心とする「子ども社会」も壊滅的です。また、大人の世界に子どもが気楽に出入りできない現状もあります。40年もさかのぼれば、地域の冠婚葬祭などで、子どもが大人の世界にお相伴するのは当たり前でしたが、現代はそのようなものはほとんど見受けられません。かつて、赤ちゃんから大人までの変化がグラデーションのように見えていた地域社会は、大人か子どもの二極的判断しかなされなくなってしまっています。
今、求められるものは、この75年間で失われたもの
今、求められているものは、究極的に言えば「この75年間で失われた古き良き子育ての伝統」です。その証拠に、実際に保育施設に求められていることは、「保育」「子育て支援」「地域交流」です。
私が認定こども園の園長をしていたとき、地域の交流行事で老人会に参加させてもらい、餅つきをやりました。その時に「餅をついたことがない」と老人会の人に言われ、びっくりしました。餅つきは基本的に機械でやり、最後に形ばかり、臼と杵(きね)を使ってぺったんぺったんとやるのが、当たり前になっていたのです。でも、よく考えてみれば、私が年を重ね、老人会のメンバーとなり、例えばわらじ作りを教えてくれと言われても、作ったことがないと答えるのは普通のことだということに気付かされました。
つまり、私たちはまず、この75年間で失われたものから、失っていいものと失ってはいけないものを選り分け、その上で、失ってはいけないものについては、積極的に伝承していくべきなのです。では、保育において失ってはいけないものとは何なのでしょうか。(続く)
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