人から良い言葉をかけてもらったり、高評価を受けたりすると、それだけで生活が楽しくなり、将来への希望を持てるようになることがあるでしょう。
聖書が教える理想の生活は、神の御声に聞き従う生活です。
「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:31、33)
天国と、天国にある正しさを神に求め、聖書からの御声に聞き従えば、生活に必要なものは神が与えてくださるのです。
1. 御声
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。(2ペテロ1:17、18)
イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを高い山に連れていき、キリストの威光を目撃させ、御声を聞かせました。ペテロは、キリストの威光の目撃者なのです。
「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか」(マタイ17:2、3)
ペテロは、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです」(同4)と言いました。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい』と言う声がした」(同5)
3人の弟子たちがイエスの変貌を目撃するには、信仰告白が必要でした。そして神は、次の段階として弟子たちに、御声に聞き従うことを命じられました。
「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」・・・「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:15〜17)
ペテロは単純な信仰によって神の御声を聞き、史上初めてイエスが神の御子キリストだと告白しました。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」(同21)
イエスを神キリストと信仰告白する第1号の弟子が現れてからイエスは、これから起こる迫害と死刑、そして復活について、弟子たちに預言し始めました。
神のご計画を知るには、イエスの弟子として御声に聞き従う信仰が必要なのです。
2. 預言のみことば
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(2ペテロ1:19)
アダムとエバが、神から与えられた世の支配権を悪魔にだまし取られたときから、この世に争いと病と死という闇が入ってきました。
この世の闇から救われて夜明けを迎えるために、私たちは、明けの明星イエス・キリストを完全に心の中に受け入れるときまで、聖書の預言のみことばに目を留める必要があります。
聖書にあるキリストの福音のみことばに目を留め、聞き従うことによって、私たちの心の中にある闇に、いのちのみことばの光が差し込みます。明けの明星イエス・キリストによって、私たちは闇から光に移されるのです。
3. 聖霊に動かされ
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20、21)
聖書のみことばに、人の知恵による私的解釈を施してはならないということです。なぜなら、聖書の預言は「うまく考え出した作り話」(同16)ではなく、預言者たちが聖霊に動かされ、神からのことばを語ったものだからです。
聖書のみことばは、聖霊に動かされた人たちによって書かれている以上、聖書のみことばによって解釈されるか、聖霊の啓示によって解釈されるべきものなのです。
まとめ
ペテロとヤコブとヨハネは、ペテロの信仰告白の後に変貌山で、神からの誉れと栄光であるキリストの威光を目撃し、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」という神の御声を聞きました。
私たちもキリストの福音のみことばに目を留め、聞き従うことで、心の中にある闇に、いのちのみことばの光が差し込みます。明星イエス・キリストによって、私たちは暗闇から光に移されるのです。
心の中にイエス・キリストの光が差し込むまでは、聖書のみことばに目を留める必要があります。
聖書のみことばは、預言者たちが聖霊に動かされて語った神のことばですから、人の知恵による私的解釈を施してはいけません。みことばは、みことばによって解釈されるか、聖霊によって解釈されなければならないのです。
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