※ 第2回「届ける工夫をしているか」から続く。
ラジオ番組「ゴスペルの力」は現在、全国30カ所近くのコミュニティーFMで放送されている。確かに音楽や説教者の人選などに、いわゆる「若い風」を感じられる。だがやはり、従来型の一方通行感は否めない。そこで私は彼らとのミーティングで次のように訴えた。
「面白いアイデアがあります。まず、京都地区のコミュニティーFMから番組枠を買ってください」
私のような市井の人間がラジオで語ったとしても、普通は誰も聴いてくれないだろう(そもそもラジオで語らせてくれることなどあり得ない)。それなら、今の自分の立場を最大限生かし、すべての活動を連関させる「流れ」をつくるしかない。しかもそれは、今まで誰もラジオ番組でしたことがないものとなる(はず)だ。そのアイデアとは、大学の授業とラジオ番組のコラボレーションである。
常に双方性を目指しているか
前述したように、私は同志社大学で「建学の精神とキリスト教」という授業を担当している。2年前からオンライン授業(今年から一部対面となっている)となり、従来のように一方的に語りかけるだけのスタイルでは、授業の到達目標を果たし得ないことが明白になった。そこで考え出したのが、「質問コーナー」である。授業で感じたこと、抱いた疑問はもちろんのこと、大学生として日頃から感じる疑問やコメントを何でもいいから書いてもらうのである。ただし強制はしない。「聞きたいことがあればどうぞ」という形で常に提示している。すると意外なことに、とても大きな反響があった。最近は週平均60以上の質問が寄せられる。それを見ると、プライベートなことから授業に関するとても良い質問まで、千差万別、玉石混交である。これにどう回答するか。腕組みして思考をめぐらせることが、私のひそかな楽しみとなっていることはいうまでもない。
その中から、「これは公共性があり、ラジオで(もちろん匿名で)公開したら面白いのではないか」と思うものをピックアップし、事前に学生たちに「この質問の答えはラジオで!」と告知しておく。そしてラジオの中で実際に質問を取り上げ、回答するというスタイルである。リスナー(学生)とパーソナリティー(講師)との「双方性」を目指すやり方である。では、実際にどんな質問(リクエスト)が寄せられたのだろうか。こんな感じである。
- 現代のクリスチャンは「踏み絵」を踏めますか。
- もし現在に新島襄がやってきたら、それでも脱国すると思いますか。
- 就活で最終面接に落ちました。聖書の言葉で励ましをください。
- 英語ができるようになりたいです。
- 彼女(彼氏)が欲しいです。キリストは助けてくれますか。
私がパーソナリティーを務める放送回では、こうした質問に回答している(実際の回答は、「ゴスペルの力」のポッドキャスト〔Apple Podcust・Spotify〕などにアップされているので、聴いていただきたい)。授業の中で回答する質問もあるが、それらをさらに深掘りしたり、別の考え方を提示したりして、その分野への興味関心を刺激しようとする場合、どうしても90分の授業時間だけでは難しい。それならば、後はアフターフォロー的に「興味ある人はラジオを聴いてください」とすることで、興味のない学生はその話題から離れられるし、興味のある学生はきっとラジオを聴いてくれるはずである。事実そうなっている。
だからどうしても、同志社大学の多くの学生が住んでいる京都地区でラジオを放送することが必須だった。このことをTWRに伝えると、5月から京都リビングFM(84・5MHz、土曜日・午前1時~1時半)で放送可能となった。
「若い世代のリスナーに届くようなキリスト教番組を作りたい」。その答えはまだ出ていない。時代とともに若者文化も変化していくので、これはどの時代にも求められるものなのであろう。現時点で、そして試験的に模索する中で、大切だと見いだした項目は、本シリーズでこれまでサブタイトルとして掲げてきた次の3つである。
- その声は誰に届いているのか
- 届ける工夫をしているか
- 常に双方性を目指しているか
リスナー(および学生たち)の反応は、おおむね好評である。私の得意分野(映画、米国、神学、ゴスペル、サブカルなど)を駆使しながら、それでいてこちらが語りたいことを一方的に語るのではない。話を聴いたリスナーが次にどう行動するか、何を得るかを常に考えながら、彼らの疑問や質問に真摯(しんし)に(時にはおちゃらけて)回答していくというスタイルである。その努力は、従来のキリスト教ラジオ番組が目指してきた方向性とは少し、いや、かなり異なっているといえるだろう。「信仰決心」や「伝道」を主眼に置いていないからである。そもそもラジオの守備範囲は、個人伝道とは異なる。マスを対象とする場合、特に現代はポリティカルコレクトネス的な視点がどうしても必要になる。すると、個人伝道とは決定的に異なったアプローチにならざるを得ない。
また、大学の授業も「伝道」ではないので、特定の「イムズ」の押しつけや強制をしないのは当然のことである。しかし、キリスト教系ラジオ番組の存在意義としてどの時代にも共通するのは、「宗教としてのキリスト教の敷居を下げること」であろう。気軽に教会に足を運んだり、牧師やクリスチャンに相談したり、またラジオを通して自分のためになることだけを吸収したり・・・。これらはすべてリスナー中心のスタンスである。従来のキリスト教系ラジオ番組で意識されてこなかったのは、この視点ではないだろうか。
持てる者(福音を知っている者:牧師やクリスチャンのパーソナリティー)が、持たざる者(未信者:リスナー)に対して、一方的に伝える(ねじ込む)ことになるなら、主体は前者となる。しかし「ゴスペルの力」を通して私たちが実験しているのは、この主体を後者に置き、その声に応答する形で前者が関わる、というスタイルである。これが果たして功を奏するのかどうか。それは今後の趨勢(すうせい)を見て判断しなければならないだろう。
次回は本シリーズの最終回として、「ゴスペルの力」で「日本のラジオ伝道に風穴を開けたい」と私に訴えてきてくれたTWRのスタッフであるクリスチャン男性へのインタビューを紹介したい。(続く)
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