ラジオが普及したきっかけの一つに、キリスト教の伝道があったとされている。また、テレビを用いた伝道は1970年代に米国で大ヒットし、今もこのスタイルは存続している。こうしたキリスト教とメディアの関係を「聖と俗」と捉えるならば、それは「水と油」になってしまうが、歴史的に見るなら両者の関係は深く、そして近しいものである。
日本でも数多くの宣教団体が、ラジオ伝道に取り組んでいる。いわゆるキリスト教系ラジオ番組である。しかし一部を除けば、そのどれもが次のような「壁」にぶち当たっていると聞く。
1)放送時間帯が深夜か早朝である。
2)内容のほとんどが聖書からの「真面目な」メッセージで、リスナーからの反応が少ない。
1)に関しては、金銭的な理由が大きいため、何ともし難い。多くの人が聞いているゴールデンタイムの枠を購入するには、多額の資金が必要となる。大手と渡り合うだけの資金は、現状日本のキリスト教界にはない。だから、ネットで放送内容を公開するなどして、番組をいつでもどこでも聴けるようにする工夫をしている。しかし、やはり一番大切なのは「中身」である。聴きたいと思えるような内容かどうか。
2)に関しては、個人的な意見ではあるが、かつてのラジオ伝道者のスタイルを意識し過ぎるあまり、今の担い手たちは硬直化してしまっているのではないかと思う。つまり、「新しいこと」「革新的なこと」に一歩踏み出す勇気がなく、今まで通りで事なきを得てしまうキリスト教界の現状が透けて見えるのである。
しかし今、「日本のラジオ伝道に風穴を開けたい」という声が湧き上がっている。私も常々、ラジオ伝道をするなら、市井の人々、特にキリスト教に全く興味も関心もない人たちに届くやり方で行わなければ、と思っていた。そこに30代のクリスチャン男性(後述する「ゴスペルの力」のスタッフ)から声がかかった。「青木先生、ぜひ若い世代に届くようなキリスト教系ラジオ番組を作りたいんです」と。この声に奮い立った。
ラジオ放送はラジオ伝道たり得るか――。私も教会生まれ、教会育ちであるため、今まで多くのキリスト教系ラジオ番組を聴いてきた。しかし、そのどれもが礼拝のダイジェスト版、簡略版であった。最近でこそ、ユーチューブの普及により、バラエティー番組のような作りの動画も増えてきて、個人的にはうれしいのだが、ラジオというとまだまだである。もちろん例外はあり、少し有名なパーソナリティーがいろんな悩み相談に答えたり、毎回ゲストを招いて楽しくトークを繰り広げたりするという番組もある。しかし、大勢はそうではない。
そのような状況に「風穴を開けたい」という声に、私も敏感に反応した。そして何度かミーティングを持つことになり、新たなベクトルのラジオ番組制作に関わることになったのである。これは決して成功例ではない。現在進行中のことであり、結果がどうなるかは文字通り「神のみぞ知る」である。しかし、少なくとも「現状のままでいい」とは思わず、「何かを変えたい」と願う者たちが集まることで、日本のメディア宣教に新たな機軸を生み出すことができたら――。そう思わされている。これから、今回を含め計4回にわたり、今までの軌跡と、これからの展開を描き出してみたい。
その声は誰に届いているのか
まず、彼らと話し合って一番気になったのは「反応が少ない」ということ。どうして反応がないのか。それははっきり言って、その番組が受け手にとってあまり魅力的でないということである。例えば、集会や講演会で、講演者も参加者も充実した時間を過ごせれば、オフィシャルなプログラムが終わっても、会場をすぐに離れようとはせず、語られたトピックスに関してあれこれと話に花が咲くはずである。特に講演者の周りには人だかりができ、「みんなの前では聞けなかったんですけど・・・」などと前置きをしながら、いろんな質問や意見が投げかけられるだろう。
ラジオにおいては、これがリスナーからの声である。それが少ないということは、番組のコンセプトそのものをドラスティックに変革する必要があるということである。念のために言っておくが、かつて芸能界にいたとか、すでにラジオのパーソナリティーとして有名であるとか、そういう知名度のある人が番組を切り盛りするのは「例外」であり、今考えている範疇(はんちゅう)にはない。そうではなく、「普通」の人であっても、教会を基盤にしながら、それでいてセキュラーな世界にキリスト教の良さを伝えることができないか、ということである。ひいては福音宣教につながるような働きを、名もなきクリスチャン(ここでは筆者)にできないか、ということである。
「風穴を開けたい」と願う彼らの思いも同じであった。高いギャラを払い、その道のプロを雇って行うのではなく、自分たちの力で、知恵とアイデアで人々の心をキリスト教や聖書に向けることはできないか、ということである。これは私も常々考えてきたことである。
深夜や早朝といった、どんなに過酷な放送時間帯であったとしても、必要となる費用は決して安いものではない。それを献金で賄っているというのであればなおのこと、きちんとした成果を生み出すために鋭意努力するのは必然である。献金が与えられているからといって、未信者が興味を持ちそうにない、反応の少ない番組を流し続けていていいのだろうか。私にはそんな疑問が常にあった。だから同じ轍(わだち)を踏まないようにしなければならない。
そこで思い至ったのが、私の置かれている特殊な事情である。私は現在、同志社大学で嘱託講師をしている。学内で「新島科目」と呼ばれる「建学の精神とキリスト教」という科目を担当している。これがすべての突破口となった。学生たちが、思わず授業内容の続きとして聴きたくなるような題材、トピックスを見つけ出し、それをラジオで面白おかしく、また、ためになるやり方で提示できたらどうか。そこから生まれたのが、現在、全国のコミュニティーFMで放送されているラジオ番組「ゴスペルの力」のリニューアル版として、私が担当している放送回である。
これは、ラジオ伝道の「限界」を指摘することでもあった。「所詮、ラジオ」ということである。しかしこの言葉は、「されど、ラジオ」という気概を内に秘めているということにもなる。(続く)
◇