モーセについては、チャールトン・ヘストン主演の「十戒」という映画が有名です。古い映画ですが、エジプトの奴隷状態からイスラエル民族が解放されるという大スペクタクルな映画として今でも知られています。
実は、出エジプト記に記されているイスラエル民族の奴隷解放と約束の地への旅は、私たちが経験するイエス・キリストによる救いのひな型として、聖書信仰の中心にある重要な内容なのです。
1. 両親の信仰
紀元前1500年、イスラエル民族はエジプトの奴隷でした。このときにはすでに、奴隷となってから400年もの長い年月がたっていました。
イスラエルは神の祝福により多産でしたので、エジプトはイスラエルを恐れ、生まれてくる男の子を間引きするよう助産婦たちに命令しました(出エジプト1:7〜21)。
信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。(ヘブル11:23)
モーセの両親は彼の美しいのを見て、王の命令をも恐れず、信仰によって3カ月の間モーセを隠しました。彼らはこれ以上モーセを隠し通すことができないと思い、その子をかごに入れ、ナイル川の葦(あし)の茂みの中に置きました。
水浴びをしようとナイルに降りてきた王の娘が、葦の茂みにあったかごを見、その中からモーセを見つけました。そこで、遠く離れて見ていたモーセの姉ミリヤムが王の娘に、ヘブル人の乳母を紹介すると言って、実母がしばらくモーセを育てることになりました。
神は、祭司職レビ人であるモーセの両親の、王の命令をも恐れない信仰の故にモーセを祝福されました。モーセは後に、救世主のひな型として用いられることになるのです。
迫害をも恐れない両親の信仰はその子どもに遺伝し、信仰相続されます。これは、聖書にある奥義です。
2. モーセの信仰
モーセは、王の娘の子として最高の生活をし、最高の学問と武道を学んでいました。
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。(ヘブル11:24〜27)
モーセは信仰によってエジプトの富と権力を捨て、見えない神からの報いを選び、侮辱と恐怖を忍耐し通したのです(出エジプト2:11〜15)。
3. モーセと神の民
モーセはイスラエル人を救うためにエジプト人を殺し、この罪によって命を狙われ、40歳のときにエジプトを出て、ミデヤンの地に行きました。そこで結婚して40年過ごした後、神の使いにより、イスラエル人たちをエジプトの奴隷から救い出すよう命じられました。モーセは神からの力を得ます。そして、イスラエル人たちをエジプトの奴隷から解放するため、神業により10の災いを起こします。(出エジプト3〜12章)
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。(ヘブル11:28、29)
モーセは、最後の災いがエジプトにいるすべての初子を殺しにくるとき、イスラエル人の初子に災いが触れることのないよう、過ぎ越しの儀式と、門とかもいにいけにえの血を塗ることをイスラエル人たちに行わせました。
私たちも、イエスの十字架の血によって世にある死の災いが過ぎ越し、死と悪魔の奴隷状態から解放されます。
モーセは、後を追ってきたエジプトの王とその軍勢からイスラエル人たちを救うため、眼前に立ちはだかる紅海が分かれるよう祈り、乾いた地を全イスラエルは渡りました。そして、神は紅海を戻し、パロの軍勢を海の底に沈めました。
実はこれが、イエス・キリストを信じる信仰により、私たちが世と死の奴隷状態から救われて神の国に入るという一大ドラマのひな型なのです。
まとめ
モーセはその祖先や家族の信仰によって、信仰のリーダーとして神に選ばれました。生活や権力においてはエジプト王子としての豊かさを持っていましたが、アブラハム契約に連なる子イサク、孫ヤコブの神の国計画の相続者という祝福を願い、信仰によってエジプトのすべてを捨てて侮辱を受け入れ、御国相続の報いから目を離しませんでした。
イエスをキリストと信じる私たちも、イエスの十字架の血により死の災いが過ぎ越し、世の奴隷から解放されたのですから、世にある富や地位、名誉、権力、楽しみを神より優先する世的生活を捨てる決心が必要です。
これらの快楽は神にあるものでなく、世にあるものです。ですから、行き着く先は死です。私たちは世にある欲を捨て、神の報いから目を離さない信仰生活をすべきなのです。
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