入管告発ドキュメンタリー映画「牛久」が、26日から全国の映画館で順次公開される。出身国に帰れば命の危険にさらされる難民を難民として認めず、恣意的に違法滞在の烙印を押して期限の見えない収容所に拘束する、入管の冷酷な現実を映し出す。
製作したのは、クリスチャンの映画監督トーマス・アッシュさん。日本聖公会聖オルバン教会のメンバーであり、牧師の息子でもある。同教会には「ディーパー・サービス・グループ」(DSG)という奉仕がある。マタイの福音書25章31〜47節にあるイエス・キリストの命令に従い、日本に難民として助けを求めに来た人やその他の移住者に仕えるために2018年から活動している。トーマスさんは教会の友人に誘われて19年からDSGのメンバーとなり、入管での面会活動や、仮放免となった人々への支援活動を始めた。
収容された人々と共に祈り、語り合う中でトーマスさんは、衰弱して歩けなくなり、車椅子で面会室に来る人、病院での診察を希望しても放置されたままだと訴える人、入管から処方される睡眠薬や安定剤により、いっそう心身共に追い詰められていく人、自殺未遂する人らを見た。こうした状況を目の当たりにし、ドキュメンタリー作家である自分にできることは何かと考えたことが、本作の製作につながっていった。
作品に出てくる被収容者にはクリスチャンもおり、キリスト教信仰に基づいた言葉のやりとりが自然に見られる。本作はすでに海外の映画祭で複数回受賞するほどの評価を受けたが、日本での公開には幾多の妨害や困難を乗り越えなければならなかった。公開を前に、トーマスさんに話を聞いた。
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――作品が日本で公開されることとなりました。おめでとうございます。これを達成するために乗り越えなければならなかった最も大きな困難は何だったでしょうか。そのために、神は監督をどのように助けられましたか。
お祝いの言葉をありがとうございます。日本中の人々、そして世界中の人々に、この作品を共有できるようになったことは、確かにとても光栄なことではあります。しかしこれは、うれしいと感じるようなものではありません。できることなら、しなくても済んだらよかったのにと、私は思うのです。
乗り越えるのが最も困難だったことは、収容された人々の証言を記録する方法を考え出さなければならなかったことか、もしくは私や作品に対する出入国在留管理庁からのある種の報復に立ち向かうことだったかもしれません。しかし、実際に最も乗り越えるのが困難だった課題は、「他の人たち」からの妨害でした。出演者が声を上げるのをやめさせようとした人々や、真実を話すことで自分の身を危険にさらすことになると、出演者たちを説得しようとした人々のことです。私たち支援者のなすべきことは、勇気を出して声を上げている人たちを支援することです。
神は、私がどんなことでもできるようにしてくださいました。振り返ってみると、神がおられなくては何も起こりませんでした。私にとっては、入管でボランティアを始めたことが、すべての始まりでした。そのとき私が願っていたのは、神が私を通して働かれ、入管に収容された人々に幾らかでも小さな平安がもたらされることでした。しかし実際のところ、助けられていたのは自分の方でした。彼らから、私たちボランティアのために祈っていると言われたことが多々あり、彼らの言葉を通して神の愛を感じました。私の知っている聖公会のあるシスターは、このことを「恵みの交換」だと言っていました。誰かに仕えることを通して、私たちは逆に、それ以上の恵みを受けているのです。
――観客として、この作品に期待できることは何でしょうか。また、監督が考えるに、この作品に期待すべきでないことは何でしょうか。両論が反映されていると期待した評者が、片方の意見だけが反映されていると感じたという批評も目にしました。その評者は、ドキュメンタリー映画をルポライター型と検察官型に分け、「牛久」は検察官型だと解釈していました。
「牛久」を通して私が願うのは、非人道的な入管法の影響を受けた人々の、ありのままの声を世界に出すことです。政府の立場に関して言うなら、森(前)法務大臣の長い国会でのシーンを私は含めました。その中で彼女は明確に、入管法、収容、国外退去についての政府の立場を述べています。私が入管に関わる他の行政関係者にインタビューをしなかったのは事実です。しかし森大臣の国会での答弁が、正確かつ十分に政府の立場を表していると私は信じます。もし政府が自分たちの立場について何か言いたいことがあるのなら、彼らにはいくらでも利用可能なメディアがあります。収容された人々は、自分たちの声や経験を共有することを許されないできたのです。ずっと今まで。この作品を観る人は、なぜ収容所で写真撮影や録音が許可されていないのかについて自問すべきだと思います。もし入管に隠したいものがないのなら、なぜ彼らはそれを隠すのでしょうか。
――作品に対して予期していた反応もあったでしょうし、予期していなかった反応もあったと思います。それらの中で最も監督の印象に残ったものは何でしょうか。
私が子供の頃、大変なことが起きると、母はいつも「世の中で起きることは自分の思い通りにはできないけれど、それにどう応じるかだけは自分で決めることができる」と言っていました。難しい状況が訪れると、その言葉を思い出すようにしています。
この作品の公開をやめさせようとした人々がいます。しかし、人が神に与えられた才能や時間、エネルギーを使って、世の中で良いことをする代わりに、誰かがやっていることを壊そうとするのを見るのは悲しいことです。自分のエネルギーを破壊のために使う人々。私は彼らのために祈ります。彼らの目が開かれ、彼らが神に与えられた賜物を、世の中を良くするために使うことができるようにと。
すべての人がこの作品を支持することは期待していませんが、収容されている人に何が起きているかについて関心のある人すべてが、現在の入管体制の被害者を支持することなら、私は確かに期待しています。並々ならぬ勇気を出して声を上げた出演者を黙らせようとする人は、どんな人であっても入管当局の片棒を担いでいるのです。
――肯定的、否定的な批評があったと思いますが、中でも監督が的を得ていると感じたものは何だったでしょうか。特に、否定的な批評に対して、監督はどう応答しますか。もし監督が応答の機会を与えられなかった批判があれば、ここで答えてくださって構いません。
「牛久」で私がもらった最も肯定的な批評の一つは、作品にナレーションが入っていないことについてのものでした。これは意図的にそうしました。なぜかというと、収容所の中にいる人々の証言と声に、常に焦点を当てたかったからです。
おそらく、日本の方々から受けた最も大きな批判は、隠しカメラについてでした。この作品は二十数カ国で上映されたのですが、隠しカメラについて私を批判した人は誰もいなかったので、私はこれをとても不思議に思います。海外の人たちは、この話を白日の下にさらす唯一の方法は「隠しカメラ」しかなかったのだと理解していました。
ここ日本では、私が「何を」撮影したかではなく、「どのように」撮影したかを中心にあまりにも多くの議論がなされており、非常にもどかしく思っています。ひどい、あまりにもひどい真実が掘り出されたのに、それにどんなスコップが使われたかしか話さないようなものです。完全に要点を見逃しています。作品を観てくだされば、なぜ私がそうしたかが分かります。誰かが死ぬかもしれないと思ったのです。そして、そこで起きていることの証拠を残さなければならないと強く感じたのです。ひどい悲劇が起きている事態の中で、私は入管がこれを隠蔽することを望みませんでした。初めから映画を製作することを意図していたわけではありませんでした。始まりは、私の目から見て人権侵害にしか見えなかったことの証拠集めだったのです。
――作品に出てくる被収容者にはクリスチャンもいます。クリスチャンの映画監督として、日本人のクリスチャン、在日外国人のクリスチャン、複数の文化的人種的背景を持つ日本在住のクリスチャンに向けて、メッセージをお願いします。監督は彼らに、どのようにこの問題に関わってほしいと願いますか。
収容所を訪問することを通して、そして、収容された人々のうちで幾人かと私が結んだ人間関係を通して、私は信仰をとても深く、強くされました。私がそこに行ったのは、私が訪問した人々の人生を少しでも改善したいと願ってのことでした。しかし逆に、自分がこれほどまでに変えられるとは予想だにしていませんでした。
神が私たちに与えてくださった人生は、とても短いものです。私たちはそれを大切にし、一日一日を授かりものと思って生き、役立てていかなければなりません。キリストが私たちを愛されたように互いに愛し合うよう私たちは召されています。周りの困っている人に仕えるよう、私たちは召されているのです。平安のうちに出ていき、愛し、主に仕えましょう。
■ 映画「牛久」劇場版予告編