1970年代、公民権運動とカウンターカルチャーの大波をかぶった米国のキリスト教界に、一つの新しいうねりが生まれた。それがテレビ伝道師(テレバンジェリスト)と呼ばれる存在である。彼らはテレビを用いて独自のスタイルで集会を提供した。いわゆる「お茶の間教会」である。番組では心地よい音楽が流れ、豪華なゲストが毎回(時には毎日)出演する。そしてクライマックスでは、看板説教者たるテレバンジェリストたちが限られた時間で見事な話術を披露する。聖書を片手に語られるその説教は、堅苦しくなく、ストレートで、しかもインパクトのある言い回しが細部にまで行き届いている。
当然、このテレバンジェリストたちは美男美女でスタイルもいい。そして番組の最中、いつも下部にテロップが流れ、視聴者に献金をアピールする。こうやって集められた献金は、巨大なテレバンジェリスト組織になると、当時の共和党・民主党の年間選挙費用の2倍以上に膨れ上がったといわれている。しかもそのほとんどが、10ドルや20ドルといった「小口献金」であった。つまり本当の「草の根運動」として、このテレバンジェリスト・ムーブメントは動いていたのである。
当時の有名なテレバンジェリストといえば、ビリー・グラハム、オーラル・ロバーツ、ロバート・シュラー、そして本作「タミー・フェイの瞳」で取り上げられているジム・ベイカー、タミー・ベイカー夫妻である。
ベイカー夫妻の業績は、他のテレバンジェリストと比べても抜きん出ていた。人形劇を用いた伝道スタイルで人気を博し、キリスト教テレビ局「CBN」を立ち上げたパット・ロバートソンの目に留まる。そして彼の番組で一つのコーナーを担当するが、ここでも人気が爆発。その後紆余曲折を経て(映画ではこのあたりは結構あっさりと描かれている)、PTLクラブという単立キリスト教会に招聘(しょうへい)される。ちなみにPTLとは、Praise The Lord(主を褒めたたえよ)の略である。PTLクラブは瞬く間に人気を集め、1977年には24時間放送を開始する。人工衛星を用いて全世界に向けて配信するというシステムを導入したことからも、その勢いと規模が分かるだろう。
彼らのビジョン(野望?)はとどまることを知らない。1980年代初頭には、「クリスチャンのためのディズニーランド」ともいわれた「ヘリテージUSA」というリゾート施設を、サウスカロライナ州南部に建設する。2400エーカー(東京ドーム約200個分)ともいわれる広大な土地に、ホテル、プール、温泉、そしてもちろん礼拝堂も構えたのである。しかし、このあたりから雲行きが怪しくなる。
1987年、ジミーのセックススキャンダルが発覚し、その後、脱税や横領などさまざまな実態が明らかになっていく。それは決して聖職者たる牧師のそれではなく、色と欲にまみれた「宗教ビジネス」にどっぷりとはまってしまった人間の成れの果てであった。
そろってPTLクラブの責任者から追い出されてしまったベイカー夫妻は、ジミーの有罪判決を契機に福音伝道者としての第一線から退くこととなる。当時同じようなテレバンジェリストとして活躍し、同じような時期に不倫問題で第一線を退かざるを得なかったジミー・スワガートと共に、テレバンジェリストの失敗例として歴史に名を残すことになってしまった。
本作はこの出来事を描いている。なぜこの時期に?と思うとき、やはりトランプ政権下で躍進(暗躍?)した宗教右派へのアンチテーゼであろうと考えてしまう。しかし私は、そのような巨大組織の歴史的推移よりも、むしろベイカー夫妻の「信仰者としての罪とその悔い改め」にこそ目が留まった。主演のアンドリュー・ガーフィールドが演じたジミーは、「心の貧しい者は幸いです」というイエス・キリストの山上の垂訓のメッセージに反発し、「主は愛する者に豊かに与えてくださる」というポジティブな信仰(「繁栄の神学」といってもいい)を軸に、伝道者としての生涯をスタートさせた。その熱い思いに呼応したのがジェシカ・チャステイン演じるタミー・フェイ(後のベイカー夫人)であった。彼らはあれよあれよという間に、巨大な組織と無数のファン(テレビ信者といってもいい)を獲得する。まさに彼らが願っていた通り、神が繁栄を与えてくれたのである。
しかし、そこからの転落はさらに急激なものであった。すると多くの場合(おそらく今もそうだろうが)、こういった過ちを犯した伝道者は二度と立ち上がることが許されない。ダメなレッテルを張られ、「繁栄の神学にかぶれた」と揶揄(やゆ)され、さらには「教会成長」という言葉すら異端的な響きがすると嫌悪されてしまう。歴史的評価という点ではいろいろな解釈ができるし、テレバンジェリストの是非を問うなら、それは一種の熱病のようなものだったということもできよう。
しかし、である。映画はそこで終わらない。彼らは刑務所の中で「心の貧しい者は幸いです」の続きを告白することになる。「天の御国はその人のものだからです」と。本作は、ベイカー夫妻がこのマタイの福音書5章3節を理解するための人生行路であったと解釈することを可能にしている。自らの人生を通して御言葉を体験する。これに勝る信仰者の喜びはないだろう。
本作のラスト、タミー・フェイはとある舞台で歌い慣れた賛美歌を歌うことになる。その舞台は、以前の彼女からすると考えられないくらい規模が小さい。しかし、ここをクライマックスに持ってきた意図は分かる。彼女は賛美歌を歌う。そこには転落人生を体験し、人々の嘲笑の的となった哀れな中年女性の姿がある。しかし彼女の中では、そして彼女の信仰の目からこの光景を見るなら、それは大聖歌隊を引き連れて神の前で歌う姿に見えたのである。この演出が見事で、単なる失敗者の烙印(らくいん)を押して終わることはできないとする製作者たちの意図が感じられる。そこには、もしかしたら「真の悔い改め」があったのではないか。そしてその悔い改めを、神はこのようなイメージで受け止めてくださったのではないか。もちろん映画である以上、そのあたりの解釈は幅を持たせられるようになっている。だからこそ、観終わった後であれこれ語りたくなる一作である。
本作は現在、ディズニープラスで視聴可能である。ぜひクリスチャンの仲間と共に視聴し、その後でいろいろと語り合ってもらいたい。
■ 映画「タミー・フェイの瞳」(予告編、英語)
■ 映画「タミー・フェイの瞳」(予告編、日本語字幕)
◇