1月24日、フィンランドのヘルシンキ地方裁判所で、ある裁判が始まった。この裁判は、ともすると今後の欧州における信仰の自由と言論の自由の基準が、どのような方向に進むのかを左右しかねない歴史的なものになる可能性さえある重要なものだ。
法廷に立たされたのは、1995年からフィンランドの国会議員を務めるパイビ・ラサネン代議士とフィンランド福音ルーテル宣教教区(ELMDF)のユハナ・ポージョラ監督だ。ラサネン氏は、キリスト教民主党の党首を務め、2011年から15年には内務大臣として働いた。私生活では、牧師の妻であり、5児の母、医師としての経歴を持つ。
告訴は、2019年のラサネン氏のソーシャルメディアでの投稿と、ラジオ番組での発言、04年に執筆した教会向けの冊子、この3つが「戦争犯罪と人道に対する罪」を犯罪化するフィンランド法の「民族扇動罪」に抵触するとし、ポージョラ監督は、彼女の冊子を出版した立場で起訴された。
ことの発端は、19年6月にラサネン氏が、自身も所属する国教会であるフィンランド福音ルーテル教会に対する公開質問のメッセージをSNS上に投稿したことだった。
同国教会は、この年ヘルシンキで開催されたゲイ・プライドパレード(LGBTQ推進運動のパレード)に対して支持を表明し、公式パートナーとなった。これにショックを受けたラサネン氏は、抗議の意味を込めて、新約聖書のローマ人への手紙1章24〜27節を引用し、「プライドイベントは、聖書が罪深く恥ずべきとする行為や関係を祝うものです」「教会の教義的基盤である聖書が、恥や罪深いと定めることと、それを誇りの対象として持ち上げることと、どうして両立し得るのでしょうか」とツイッターとフェイスブック上で問い掛けた。
驚いたことに、警察当局はこの投稿を同性愛者への不当な憎悪や嫌悪をあおるものだとして、ラサネン氏を捜査の対象としたのだ。この後、捜査当局は彼女のラジオでの発言や、04年に書いた冊子にまで捜査範囲を拡大する。裁判に至るまで幾度も警察の尋問を受けた彼女は、まさか内務大臣時代に自分が管轄していた警察に取り調べを受けるなどとは微塵も想像しなかったと述べている。
彼女の発言が犯罪捜査の対象になることに驚きを覚えるのはもちろんのことだが、さらに驚かされるのは、国教会のフィンランド福音ルーテル教会がプライドパレードの公式パートナーとなるべくサインをしたことだ。国教会の福音ルーテル教会は、大部分が世俗化されているが、保守的なリバイバル運動の活発な少数派も存在する。国教会はこれらの教会から教会税を徴収する権利を持っている。ラサネン氏の在籍するローカルチャーチはこのような保守的かつリバイバル運動の流れにある少数派教会なのだ。良心的なキリスト者であれば、教会が容認できない逸脱に堕ちるなら、ラサネン氏が声を上げたのと同じ懸念と抗議の念を抱くのは当然のことではないか。
該当の罪状で有罪が確定した場合、最長で禁錮2年の刑に処せられるが、検察側はラサネン氏に、冊子をインターネットから削除することと、120日分の収入に相当する罰金を課すことを要求している。ラサネン氏は冊子の削除および自身の信念を撤回するつもりはなく、必要があればすべての訴訟を経て、最後まで闘う覚悟だと述べている。
24日の裁判は、休憩を含めて8時間半の審理を経て、午後6時ごろに閉廷した。裁判所の外では、およそ85人がラサネン氏への支持を表明し、言論と宗教の自由を求めるデモを行った。この日、最終陳述は聴取されず、2月14日に延期されることとなった。
この裁判から10年以上さかのぼる10年10月12日、ラサネン氏は同性婚とLGBTの権利をテーマにしたテレビの生討論に参加した。彼女は、同性婚ではなく異性婚を支持する他の5人の出演者と共に、自身の政党と、キリスト者として同じ信念を共有する人々の代表として番組に出演した。しかし番組での彼女らへの反発は強く、彼女らへの抗議として番組放送後の数週間で4万人近くの教会員が国教会を脱会してしまった。国会議員という立場の彼女が、自身の信念を貫く代償はあまりにも大きかった。
彼女や家族への抗議や非難、中傷やさげすみなどは計り知れない。時流はますます彼女の立場を劣勢に追い込む今、この戦いは政治家としての彼女の進退問題になりかねないし、明らかにデメリットしかない負け戦に見える。もし彼女が白旗をあげて持論を撤回するなら、摩擦や対立はすぐにでも終わるし、政治家としても浅傷で済むだろう。それなのに、どうして彼女はこれほどまでにリスクを背負って戦い続けるのだろう。
彼女は、聖書を手に出廷し、裁判の中で次のように発言した。「言論と宗教の自由を守ることができて光栄です」「私は今日、私がどのようなグループに属する人々をも傷つける意図がないことが明らかになることを望みます。しかし、私に問われているこの件は、人々の救いや永遠のいのちに関わる問いでもあるのです」と続けた。
ラサネン氏は、この戦いは人々の救いと永遠のいのちにも関わると述べたのだ。一体、同性愛に関する聖書の見解が、どうして救いや永遠のいのちに関わってくるのだろう。これに対するヒントが、彼女が04年に書いてこの裁判でも嫌疑がかけられている24ページからなる冊子「神は彼らを男と女に創造された」の結辞の最後の言葉に見いだすことができる。少し長いが以下に抜粋する。
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最後の言葉
数カ月前、私はある人からメールを受け取りました。その人はこう尋ねました。「聖書がそれほどまでにはっきりと真実を伝えているのなら、あなたは私の目をまっすぐ見て、魔法の杖の一撃で海が割れたとか、イエスが数匹の魚と数切れのパンで大勢の人々を養ったとかいう話を信じると主張できますか。もし、あなたがこれらの話を真面目に信じているとしたら、誰もあなたの話を真剣に聞くことはないでしょう。一方、もしあなたがこれらを文字通り信じず、むしろ神の力の象徴的な比喩だと考えているなら、それでは、どうして聖書は同性愛などの具体的な問題に、的確に答えることができるなどと言えるのでしょう」
私は質問者に次のように答えました。「キリスト教の中心的主張であるイエスの死と復活は、聖書の最も理解しがたい奇跡だと考えています。医学的な見地から言えば、これは不可能中の不可能です。死者が生き返ることなどあり得ない。しかし、もし神がこのような奇跡を行うことができるなら、なぜ他の奇跡を行うことができないなどと言えるのでしょう。イエスの死と復活は、キリスト教の信仰全体の核心です。これによって聖書の全体は立ちもするし倒れもするのです。もし、これを信じることができないならば、キリスト教には何も残りません。しかし、もし私がこれを信じるなら、キリストが使徒と預言者を通して聖書の中で教えている他のすべてのことも信じなければならないという当然の論理的帰結に至るのです。このように神の言葉への信頼と福音の喜びと確信は、密接に関連しているのです。現代における最悪の “殺し文句” の幾つかは、神の言葉としての聖書への信頼を損ねる教えです。もし神が聖書に書かれているような罪(同性愛の行動も含む)を裁く聖なる神ではなかったなら、なぜ神の子は死ななければならなかったのでしょうか。もし私たちが、人々が自分の罪に対して罪悪感を感じる権利を否定するなら、私たちはその人々から福音の喜びと確かさを奪うことにもなるのです。天国への確信とは、私たちの現実の罪に対するキリストの贖罪の死が、そしてその死からの復活が、歴史的事実であるということにかかっているのです。
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ここでラサネン氏が言わんとすることを端的に要約するなら、聖書の信頼性、福音の信頼性、神の信頼性は、切っても切れない関係にあり、それは一貫して真実でなければならないということだ。もし聖書の大部分が単なるおとぎ話で、額面通り受け止める必要がないとするなら、最も困難にして偉大な奇跡と言える、キリストの贖罪の死と復活が歴史的事実であるとどうして言えるのだろう。聖書にはたくさんの誤りが含まれているなら、キリストの贖罪の業は真実かつ有効であると、どうして断言できるのか。神がご自身を啓示する方法として選ばれた聖書には、たくさんのうそや間違いが含まれているとするなら、神ご自身も誤りを犯し得るということにならないだろうか。
聖書はいう。「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」(ヤコブの手紙1章17節)
御父には、移り変わりとか光の影もなく、真実にして一貫しておられるのだ。つまり、神への信頼、聖書への信頼、福音への信頼は「神は一貫して真実である」という神のご性質にかかっているのだ。
それだから聖書が、キリストの贖罪死と復活が真実であると告げているなら、聖書が告げる他の部分も真実であり、聖書が告げる男性の創造と女性の創造もまた真実なのだ。それなら、聖書が、男性と男性の性的関係や、女性と女性との性的関係が罪深く不適切であると告げているなら、当然それも真実であるという帰結に至るのである。
もし聖書自身が普遍的な真理であるとして教えている事柄が、この世の文化や時流という相対的な事柄によって変更を受けたり、無効とされたりするなら、そしてそれを小さなことと捉えて、たった一つでも、聖書を神の言葉として信じる教会が妥協を許すなら、それは限りのない相対主義の氾濫を教会に招き入れることを意味する。
同性愛の関係は罪深いと定めている聖書の教えが、同性結婚が標準化されつつある現代文化の影響によってもし無効とされ得るなら、父権が失われつつある現代文化の影響は、われらの神の「父なる神」という呼び名を廃止させ「母なる神」という呼び名に変更することを許すのだろうか。
婚前交渉が当たり前の現代文化の影響が、それを否定する聖書の教えをもし無効にすることができるなら、私たちはどのような権威によって結婚の聖潔や貞操の尊さを子どもたちに教えることができるのか。
ある人が「不倫は文化だ」と言ったが、文化が変われば、聖書が教える夫婦の貞潔は踏みにじられてもよいということになるのか。またもし文化が聖書の教えを変更するのなら、一夫多妻の文化圏においては、聖書が教える一夫一婦の結婚は、必ずしもキリスト者の絶対的な基準ではないということにならないか。
女性が牧師や司祭として奉仕することを禁じている教えが文化的な教えだという理由で無効とされるなら、私たちは一体どのような論理的一貫性をもって同性愛者が牧師や司祭として奉仕することに反対することができるのか。
このように、一つの妥協は決して一つでとどまらないのだ。
ここで取り扱っている問題は、同性愛が特別に罪深いとか、非常に重い罪であるとか言っているのではない。もちろん、夫婦や家族の在り方そのものを変更してしまうこの問題は、宗教学的のみならず、社会学的にも決して小さな問題ではないが、聖書を正典として頂く私たち教会がここで直面している問題は、さらに深刻かつ極めて重大だ。
それは、聖書それ自身が相対ではなく普遍だと主張している真理が、移りゆくこの世の文化や時流によって影響を受けたり無効とされたり、変更を受けてもよいのかという問題なのだ。教会の外の世界が神の教えから離れていくのはある意味必然だろう。しかしわれわれ教会は、教会を教え導くはずの聖書の普遍的教えがこの世の教えや文化によって影響され、変えられたり無効とされることに、指をくわえて傍観していていいのだろうか。これはわれわれ教会に突きつけられている喫緊の課題なのだ。
もし教会が、聖書が絶対として取り扱っている普遍的真理において一つでも妥協を許してしまうなら、その後に押し寄せる際限のない相対主義の洪水が待ち受けていることを知るべきだ。そして私たちは論理的一貫性をもって、それらに抗い答え得る土台を失ってしまうのである。その妥協の結果、最終的に待っているのは「結局聖書は、その人が読みたいように読み、その人が信じたいように信じればいいのだ」という相対主義的結論であり、われわれはその結論に確認の印を押すことになってしまうのである。
実は、この背後には敵である悪魔の一貫したやり口が見え隠れする。われわれ信者が、聖書のある教えは信じ、ある教えは信じないという態度を取るなら、実にそれは善悪の知識の実の誘惑に底通するのだ。
誘惑者の声は「何が正しく何が誤っているのかを決めるのは聖書ではない。お前こそが、聖書の教えの何が正しく、聖書の教えの何が誤っているのかを決定するのだ。神の言葉がお前を教えるのではない。お前こそが神の言葉に教えるのだ」とささやいてやめない。
つまり、聖書のある箇所は信じるがある箇所は信じないという態度は、聖書の権威の上に自分を権威として置く行為であり、自らを偶像化する偶像崇拝に他ならないのである。
勘違いしてはいけない。私たち教会が聖書の保護者であったり聖書の擁護者であったりするのではない。むしろ逆で、神の言葉こそが教会を守っているのだ。教会が聖書の教えを守るとき、教会はそれによって守られ、教会が聖書の教えを破壊するとき、教会も破壊される。たった一つの妥協というのは、とりもなおさず、聖書全体への裏切りにつながるのだ。
つい出来心で盗んでしまったという罪と、盗みはもはや罪ではないと神の言葉を偽って教える罪とでは、その性質においても重さにおいてもまったく異なる罪であり、後者の罪を教会が犯すなら、これは背教であり恐ろしい罪だ。現代の教会が直面している深刻な病理とは、この神と神の言葉への畏れの欠如だ。
もし教会が神の言葉に背を向けるなら、神は道端の小さな石ころからでも、ご自身の言葉に忠実なご自身の民を起こされるだろう。歴史の中で、堕落していく大勢の背後で名もなき小さな者らによって起こされたリバイバルとは、まさにこういうことだったのだ。
それだから、ラサネン氏が戦っている戦いは、小さな各論の域にとどまらない。それは神と神の言葉の信頼性に直結しており、その神の言葉によって保証される永遠のいのちに関わる福音の信頼性に直結しているのだ。この戦いで取り扱われている本質は、聖書を神の言葉として信じる信仰の根幹に関わるが故、彼女は決して妥協せず「救いと永遠のいのちに関わる」と発言したのである。この真理をめぐる戦いにおいて、神の言葉が委ねられている教会と、教会で教えを委ねられている教師(牧師)らの責任は決して小さくはない。
主イエスは言われた。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」(マタイの福音書5章48節)
上記の山上の垂訓の一節は非常に多くの信者を悩ませる。肉につける私たちが、一体どのようにして完全足り得るのかと思うからである。もし私たちが、行いという点において完全であろうとするなら、それは絶望的だという他ない。
しかしその隔たりを埋めるものがある。それは信仰だ。私たちは完全でなくても、完全な方に対する信仰を持つことはできる。完全なる神は、偽ることなく自己矛盾することもなく、ご自身の言葉に一貫して誠実であられる。であるが故に神は、今までなされた約束をすべて果たしてこられたし、これからもそうされるだろう。もし神が、ご自身の言葉と約束において一貫して誠実であられるなら、私たち信じる者にも、神と神の言葉に対する一貫した誠実な態度が求められるのは当然ではないか。つまり、行いにおいて完全足り得ない私たちだが、すべての神の言葉に対して「アーメン」とうなずきをもって、一貫した態度と信仰を持つことは可能なのだ。すなわち「みことばのすべては真実です」(詩篇119:160)とある通り、聖書はよどみなくすべて真実であると同意することはできる。聖書が「完全でありなさい」と告げているのは、このように神と神の言葉に一貫した態度と信仰を置きなさいと勧めていることをいうのではないか。
ラサネン氏は信念のために刑事訴追され、教会内外からの大きな反対と圧力にさらされている。もし彼女が、争いや摩擦を避けようと思うなら、最も良い方法がある。真理を捨ててこの世に妥協することだ。あれも正しい、これも正しい、イエスも神だが、カイサルも神ですと言って、相対主義に迎合することだ。しかし、もし私たちの先輩聖徒たちがその道を選んでいたなら、キリスト教はとっくの昔にこの世と同化して消滅していたことだろう。
パウロはガラテヤ人への手紙の中で次のように述べている。「兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているなら、十字架のつまずきはなくなっているはずです」(ガラテヤ人への手紙5章11節)
迫害や摩擦、対立を避けたいなら、真理に妥協して自分を偽ればいい。もしパウロがそうしていたなら、信仰と恵みによる救いの福音は異質なものに変質し、キリスト教信仰はその時代に終焉を迎えていたに違いない。神学論争などと大げさな用語を使わずとも、真理をめぐって論争することを、まるでけんかでもしているかのように避け「一致、一致」と声高に連呼するキリスト教会の風潮には、いささかの青臭さと違和感を覚えずにはおれない。
もちろん論争のための論争なら避けるべきだが、私たちは聖書を開かずして、いったいどのようにして正しい方向に進むことができるのか。果たして、真理に妥協して一致などあり得るのだろうか。もし一致することが目的であるならば、真理故にカトリック教会と袂を分かったわれわれプロテスタントの聖書運動は失敗であったと認めなければなるまい。聖書を開いて論じるのは、仲違いしているのでもけんかをしているのでもない。私たちはそれによって答えに歩み寄ろうとしているのだ。
「一致」はあくまでも「目的」ではなく、真理に立つと決めた人々の「結果」なのだ。御霊に導かれる聖書的一致とは、真理に妥協して大きい門、広い道を共に歩む仲良しクラブ的一致を決して意味しない。聖書がいうところの一致とは、「たとえ全世界を敵に回しても、たとえ全世界から憎まれたとしても、私は神と神の言葉に立つ」という覚悟の上にある、狭い門、細い道を歩むと決めた人々の結果としての一致なのだ。
主イエスは言われた。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました」(マタイの福音書10章34節)
人が真摯(しんし)に、真理に立とうとするとき、対立や摩擦は避けられない。迫害のみならず、あるいは殉教することさえ起こり得る。私たちの信仰の歴史を振り返るとき、そこかしこに、殉教と迫害の血溜まりの轍(わだち)があることに気が付く。なぜ私たちの先人たちは、かくも激しい迫害の猛火をくぐらなければならなかったのか。なぜキリスト者は、これほどまでにこの世から憎まれたのか。それは彼らが、この世に迎合しなかったからだ。
もし彼らがそうしたなら、戦いはすぐにでも終わっただろう。しかし、彼らはそれをしなかった。彼らは妥協もできず、融通も効かない、賢く立ち振る舞うこともできない愚か者たちだったのだ。教会がたどってきた歴史とは、まさにこのような少数派の愚か者たちの迫害と殉教の流血の礎の上に成り立っている。そして、その営みの創始者にして完成者であるお方は、決して逃げることなく、カヤパとポンテオ・ピラトの前で立派な告白をもって証しをし、最後まで十字架を忍ばれたわれらの主イエスなのだ。私たちの姉妹であるラサネン姉妹も、確かにこの系譜に属するわれらの姉妹なのである。
今日、主はこの言葉をもって私たちを招き、励ましておられるのではないか。
「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネの福音書16章33節)
2月14日のラサネン姉妹の最終陳述を祈りに覚えつつ、主が彼女を強め、立派に証しをなさしめ、われらの神の永遠の御言葉が堅く立つように祈っていただきたい。
■ フィンランドの宗教人口
プロテスタント 83・3%
カトリック 0・2%
英国教会 0・01%
正教会関係 1・1%
イスラム 0・6%
ユダヤ 0・02%