かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。 (士師記2:12)
私たちは教会のメッセージで、敵を愛することを耳にたこができるほど聞かされているでしょう。確かに、敵を愛することは御言葉であり(参照・マタイ5:44)、適用するのにふさわしい場面があります。しかし、私たちが実際に人から迫害を受けたり、傷付けられたりしたときに、この御言葉のみで心の中にあるすべての問題が解決されるでしょうか。
私は長い間、人から傷付けられたときの対応の仕方として、まずは心が苦しみ、次に御言葉を示され、実践し、癒やされ、そして成長するというサイクルを繰り返してきました。キリストとの歩みの時間を重ねるごとに、私の心がますます強いストレスに対応できるように成長してきていると感じています。これは素晴らしい恵みです。確かに、敵を愛することによって自由や癒やしを体験したことはあります。しかし、それは問題解決のほんの一部であることも事実なのです。
実際、私たちが心に傷を受けたときの癒やしや成長のプロセスには、さまざまな側面があります。この地上でキリストと共に歩み続け、やがてこの地上から離れてキリストの所に行くまで、私たちは成長し続け、心の筋肉が鍛えられ、より重い負荷に耐えることができるようになるのでしょう。
私たちが最も深い心の傷を受けるのは、自分が信頼し、仕え続けた相手から、直接または間接的に不当な言動によって裏切られたときでしょう。相手からの良い反応を期待しているだけに、落胆も一層大きなものとなります。非常に残念ながら、このような出来事のほとんどが教会の人間関係で起きているのも事実です。聖書でクリスチャンの兄弟姉妹を愛するように繰り返し説かれているのは、このためかもしれません。私はこのようなことがあれば、まずは相手の祝福と繁栄のためにお祈りします。これは赦(ゆる)しの言動であり、いわば敵を愛していることでもあります。しかし時間がたつと、同じ出来事に対して心の平安が失われるときが多々あります。なぜでしょうか。私の奥深い所に本質的な原因が潜んでいて、それが解決されていないからです。
この世の中で起こるすべての悪行の根底にいるのは悪魔です(参照・創世記3:1)。しかし、私たち信徒はその悪魔にすでに勝利しており、私たちの足元で破壊されていますから、勝利者として大胆に、勇敢に、悪魔に根拠がある言動をものともせずに歩み続けることができるのです(参照・ローマ16:20)。たとえ身近な人々にひどいことをされたとしても、私たちは勝利者として歩み続けることができます。キリストがイチジクの木の根を呪った翌朝に、木が枯れていたのと同じように(参照・マルコ11:14~21)、悪魔が破壊された後も、現実世界ではその悪行がいまだに見受けられますが、それは滅びに向かっており、力は皆無なのです。もはや私たち信徒が相手にする存在ではありません。たとえ過去の悪行が脳裏をよぎっても、力は無いのです。
真実を、愛をもって伝える(参照・エペソ4:15)という御言葉の適用には、注意が必要です。傷つけられた自分の怒りを相手に爆発させるのではなく、その相手の祝福と繁栄のために真実を伝えるという動機が何よりも大切です。エペソ4章のこの箇所には、教会を建て上げる知恵が書かれています。相手の成長を励ますことが、何よりも大切なのです。
他の神々を崇拝し続けるイスラエルの民に、神様も傷付けられる思いがあったのでしょう。冒頭に挙げた士師記の箇所で、神様が怒りをあらわにしたことが記されています。しかしそれでも神様は、ご自身を傷付けた人々をその後も愛し仕え続け、相手の自由意思をも尊重されました。
自分が相手に傷つけられたとき、私たちはどのように反応するでしょうか。何よりもまず、すべての悪行の根本的な原因となる悪魔が私たちの足元で破壊されている真実を信じ、告白し続けましょう。私たちは勝利者として、人生の征服者として(参照・ローマ8:37)、相手を愛し続けることができるのです。敵を心から愛し、赦し、相手の祝福となることで、神様の愛があふれ出る恵みを体験できます。その時に、私たちを通して語られる神様の恵みの御言葉は力強く、相手の心の中で働くのです。
神様の豊かな祝福がありますように!
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