神様の主権に関しては、教会によってさまざまな見解があることでしょう。神様の主権によって病が与えられ、命までも奪われるとお考えの方も多いのを私は知っています。ヨブもそのような考え方を持っており(参照・ヨブ1:21)、自らが体験したさまざまな災難は、神様の主権によって一方的になされたことだと理解していました。しかし大切なことは、ヨブが何を言っているかではなく、神様が何を仰せられたかを、私たちが正しく理解することです。人間の偏見ではなく、真理が私たちを自由にします(参照・ヨハネ8:32)。
現代のクリスチャンの多くは、病をはじめ、家庭を含めた人間関係の不和や崩壊、経済的な欠乏などさまざまな問題に直面したとき、神様の主権によってこれらの問題が起きたと考えます。しかしそれらは本当に、神様が意図して行われたことなのでしょうか。「御心だから、仕方がない」と解釈することは、悪い言い方をすれば、問題の解決を最初から諦めているのと同じです。さらにその問題の解決を、問題を引き起こされた神様に祈り求めるというのは、よくよく考えてみればおかしな話でしょう。しかし残念なことに、実際にはほとんどのクリスチャンがこの罠にはまり、抜け出せないでいます。このコラムを読まれている読者の皆様は、どのようにお考えでしょうか。恐らく多くの方がこの難題に直面していることでしょう。では、私たちはどうすればよいのでしょうか。
キリストは「私を見た者は、天のお父様を見た」(ヨハネ14:9)とおっしゃいました。神様のご人格を理解するには、キリストの歩みを、御言葉を通じて学ぶことが非常に重要です。キリストはこの地上で生きるだけの命ではなく、永遠の命を与えるために来られました(参照・ヨハネ3:16)。また、すべての病を癒やされました(参照・マタイ4:23他)。さらには、経済的な必要にも、満ちあふれるほどに応えられました(参照・ヨハネ21:11他)。これらは神様の主権によってなされたことではありますが、同時に人の信仰が必要でした。私たちが「信じた通りになる」(マタイ9:29)とは、まさにその通りです。神様の主権によってすべての人の運命までもが定められるのではなく、神様の主権によって与えられる恵みと祝福を、人が自由意志のもと、信じるという選択を通して受け取ることができるということなのです。
私たちは、キリストが十字架に架けられ、人類の罪のために死なれた後の時代に生きています。ですから信じる者には既に、あらゆる問題に対して日々勝利しながら歩める権威が与えられているのです(参照・ローマ8:37、ルカ10:19)。病であれば癒やしが、経済的な欠乏であれば栄えが、人間関係の不和であればその回復が霊の世界では既に与えられており、この地上でもそれらを体験することができるのです。
クリスチャンとして日々勝利する信仰生活は、神様の主権について、その境界線を正しく理解することから始まります。
神様の豊かな祝福がありますように!
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