昨年5月25日に発生したジョージ・フロイド事件。その評決が今月20日(日本時間21日)にミネアポリスのミネソタ州地裁で言い渡された。46歳のアフリカ系米国人(黒人)、ジョージ・フロイド氏を押さえ付け、「息ができない」という声を聞きながらも拘束を解かなかったデレク・ショービン元警官に対し、第二級殺人、第三級殺人、第2級過失致死、それぞれの罪状で有罪が言い渡された(量刑は6月に確定する)。まるでハリウッド映画のカタルシス満載のエンディングのような評決が言い渡されたのは事実だが、そこに残された「課題」にもスポットが当てられなければならない。前回に引き続き、今後の「課題」として見極めていかなければならない大切な点を取り上げたい。
2. キリスト教的心情をメディアが映すことの危うさ
司法だけですべての人々が幸せになるわけではない。そのことは前回述べた。しかし、だからといって宗教的な心情の吐露をストレートに世界へ配信するメディアのやり方は、さらに危険な火種となることを覚えるべきである。
黒人たちにとって、「キリスト教」そして「教会」は単なる宗教的側面にとどまらない。南北戦争終結による奴隷解放以後、彼らを待ち構えていたのは白人主流社会の中での生活であった。それは、奴隷として(劣悪であったとしても)衣食住が保証されていた環境とは異なり、自らの手でそれらを用意しなければならず、誰も助けてはくれないという過酷な環境で生きることをも意味していた。だから彼らは教会をネットワークの拠点とし、教会の牧師を半ばコミュニティーのリーダーとする社会を形成したのである。つまり黒人たちにとって教会、そしてキリスト教とは、宗教的な心情のケアとともに、実際の生活基盤を支えるリアルな社会生活空間でもあったのである。
だからこそ公民権運動は、マーティン・ルーサー・キング牧師をはじめ、牧師たちが主導する形で教会をハブとして浸透していけたし、人々の心をつなぎとめる「扇の要」として、賛美歌やゴスペルが用いられていったのである。
この傾向がさらに強くなることは否めないが、その姿を配慮なく「彼らの日常の一部」として放映することには、一抹の不安を感じてしまう。心情的な痛みをキリスト教的ロジックで癒やそうとする流れには、それが米国においては大衆性を持っているが故に、一種独特の危険性を伴うことになる。音楽ジャンルとしてのゴスペルやブルースであるならまだいい。しかし、賛美歌や聖歌などを用いて自分たちの心情を癒やそうとする場合、それは同じ楽曲を用いている他の教会(対立する立場にあるキリスト教徒)からの反発は免れ得ない。
具体的な例を示そう。英BBCの動画付きニュースの中に、「歴史の転換点」という節があり、「『やっと息ができる』 米フロイドさん死亡事件で有罪評決、街の人々の反応は」という動画があった。
そこには、ショービン元警官への有罪評決が言い渡されたことを知ったミネアポリス市内の人々の様子が映し出されていた。その後半部分で、黒人が主流を占める教会内の様子が映し出されていた。そして世界的に有名なホレイショ・スパフォード(1828~88)作詞の「It Is Well with My Soul」を皆で歌い上げていた。
この「It Is Well with My Soul」は、日本では「安けさは川のごとく」という題で歌い継がれている。彼らは評決を聞き、この歌を賛美したということだろう。この心情はよく分かる。というのは、この曲は、スパフォードが火事で全財産を失った上、海難事故で愛する娘4人を失うという絶望の淵にいた際、「それでも主を見上げるとき、心に平安が来る」と歌ったものであり、それ故に人々に知れ渡るようになった名曲だからである。だから、ジョージ・フロイド事件に(一応の)決着が着き、有罪を勝ち得たけれども、当の本人は帰ってこない。だから、悲しみの中で残された人々が明日へ進むために「It Is Well with My Soul」と歌わざるを得なかったのだろう。この事件が黒人たちの実生活の中で起こったことだけに、彼ら黒人コミュニティーの拠点である教会で、その心情をケアされ、そして主に歌うことで心を整えていこうとするのはよく分かる話である。
しかし、このような映像を全世界へ流すことに、私は一抹の不安を感じてしまう。それは、同じ楽曲を白人教会も、そしてもしかしたらショービン元警官のことを心配する人々も歌うこともあり得た(もちろんその確かな証拠などない)からである。特に家族にとって、この評決は決して喜ばしいものではなく、むしろ死刑判決に等しい衝撃を与えるものだろう。そんな彼らが、黒人教会で歌われている「It Is Well with My Soul」を聞いたらどう思うだろうか。実はキリスト教的土壌がある米国だからこそ、宗教的要因が今度は実生活に大きく影響を与え、さらなる分断、憎しみを喚起することにもなりかねない。
そういった意味で、米国の対立は「善」か「悪」で測れるものではなく、双方が異なった心情と目的で、同じ聖書を用い、同じ賛美歌を歌う、ということが大いにあり得る複雑な社会なのである。
今回の評決が、米国の人種差別の歴史に与えた意味は大きい。しかし法的な保障がそのまま「真の安全」を保障するものではないし、人種的民族的に多様性を特色とする米国にとって、このような「法的な」結果を彼らの生活、宗教に絡めて放映することは、本来一致と赦(ゆる)しを提唱している「健全な宗教(キリスト教)」をも分断してしまうことにもなりかねない。
私たちは、すぐに「究極の答え=真理」を求めたくなる生き物である。しかし、法律と宗教という相異なる概念の狭間で、難しくも大切な「微妙なかじ取り」「バランス感覚」を持ちながら、分断から一致への回復を見守る者でありたい。
また、米国の警官による暴力の問題は、その根源に機構的な欠点があるためだと指摘する声もある。警察へ振り分けられる予算と教育の問題を分かりやすく解説している本があるので、それを紹介しておきたい。在米ジャーナリスト・作家の冷泉(れいぜい)彰彦氏による『アメリカの警察』である。この本を読むと、ショービン氏のような警官がなぜ生まれたのか、そしてそれは氷山の一角であり、ジョージ・フロイド事件以降も同じような事件がなぜ多発するか、について分かりやすく解説してくれている。こちらも参考にすることをお勧めしたい。
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