本当に東京オリンピック・パラリンピックは開催できるのだろうか。コロナ禍にあることは言うまでもない。しかし、それ以前に「五輪の顔」ともいうべき政治家の失言に端を発し、その後継者選びでさらなる混乱が生じている現在(2月15日)、単に疫病によって阻害された大会というより、その本質的な部分において大きな混乱が生じてしまっている。
そこにあるのは、私たちのジェンダーへの眼差しである。「口が緩む」という表現があるが、もしも真実にジェンダーの格差(決して差異ではない)を意識していないとしたら、たとえどんな状況でも発言は同じものとなるだろう。だが逆説的に、そうではない現実が突き付けられているとしたら、むしろジェンダー格差を前提として生きている現代人が大半であるということだろう。私も決して他人事とは思えない。牧師として気を付けるというより、腹の底をしっかりと点検しなければならない。
そんなジェンダーにひも付けられた事件が世間を騒がせている最中、私たちの前に爽やかな天然水のような映画二作が連続で公開される。一つは、山内マリコの同名小説を原作とした「あのこは貴族」(2月26日公開)である。主演の門脇麦が都会で生きる箱入り娘を演じ、共演する水原希子が自力で都会を生き抜く女性を演じる。そしてもう一つは、韓国映画「野球少女」(3月7日公開)。ネットフリックスで配信され話題となった「梨泰院(イテウォン)クラス」で、トランスジェンダーの料理長役を演じたイ・ジュヨンが、韓国のプロ野球選手を目指す天才野球少女を熱演している。
「あのこは貴族」は、箱入り娘の榛原(はいばら)華子(門脇麦)が、地方から上京してきた時岡美紀(水原希子)と出会うことで展開する「格差社会モノ」である。華子は東京の上流階級に生まれ、何不自由なく育てられたお嬢様である。彼女は元旦に行われる親族の集まりに恋人を連れてこようとするが、いざ結婚となった段で男性がしり込みし、結果別れてしまう。それを聞いた一族は、むしろその別れを喜んで「次は私たちが紹介する方とお見合いしなさい」と、次々に男性を紹介してくるのだった。驚くのは、そのようなアプローチを「そんなものかな?」と何の疑問も抱かずに受け入れる華子である。そして一人の若き弁護士・青木幸一郎(高良健吾)と出会うのだった――。
物語の後半から美紀が絡んできて、上流家庭であっても庶民家庭であっても、そこには根強く「男尊女卑」のイズムが存在していることを私たちは知ることになる。生まれも育ちもまったく異なる二人が出会い、言葉を交わし、そして互いの違いを超えて一つの希望を手にしようとするとき、両者の化学反応が思わぬ感動を私たちに届けてくれる。興味深いのは、「男尊女卑」のイズムに徹底的に染め上げられ、二人につらく当たるのは、男性ではなくむしろ女性の方という展開である。だからこそ、彼女たちは自らの「個」というものを二重の意味で取り戻さなければならなくなる。一つは男性たちから独立するという「女性としての個」、そして前世代を生きた女性たちから独立する「現代人としての個」である。二人がどんな結末を迎えるか。それはぜひ自分の目で確かめ、そして皆で議論してもらいたい。
一方、「野球少女」はもう少しストレートな「スポ根モノ」である。この映画の題材となった実在の人物が存在する。1997年に韓国で史上初めて女性として高校の野球部に所属し、その後、韓国プロ野球の公式試合で先発登板したアン・ヒャンミ選手である。考えてみると、今でこそ女性が野球に打ち込むという漫画や小説は盛んだが、かつては「がんばれ!ベアーズ」に登場した天才少女アマンダくらいのものだった。
映画の主人公チュ・スインは、高校卒業を前にしてプロ野球の道へ進みたいと願っていた。しかし彼女を阻んだのは、選手としての力量もさることながら「女性」というジェンダーの壁だった。選手としての力量は、元独立リーグでプレーしたことがあるという新コーチとの出会いによって一つの道を見いだす。体格的に速球が130キロ台しか出せないスインは、ナックルボールを身に付け、「打たせて取る」ピッチングでプロの世界へ飛び込む可能性を得ることになる。剛速球が投げられるわけでもないため、スインはドラフトにかかることはない。だから彼女に残された道はトライアウトを受け、そこで球団側の目にとまることしかない。ところが、そのトライアウトを受ける資格すら「女性だから」という理由で与えられないという八方ふさがりの状況に陥ってしまう。ここでもスインを従来の「女性枠」に押し込めようとするのは、彼女の母親である。それは娘を思ってのアドバイスなのだが、それは本人には届かない。その辺りにベストセラーにして映画化された『82年生まれ、キム・ジヨン』にも通じる韓国女性の悲哀が垣間見える。
物語のラストに爽やかな感動が待っていることは、映画の性質上、誰にでも分かる。しかし、そこに行き着くまでの道のりを淡々と見せつけられる観客は、多少妥協してもいいから「誰もなし得なかったこと」で満足できないのかと思わされるシーンがある。その妥協案(これだけでも正真正銘の「前人未踏」である)も受け入れず、ただひたすら「プロ野球選手になる」ことだけを目指すその姿に、「孤高の戦士」である主人公の生きざま、ひいては彼女のモデルとなったアン・ヒャンミ選手の姿が重なる。
彼女(たち)が戦ったのは、野球だけではない。野球を対等にできる権利、それを阻もうとするジェンダーの壁との戦いが本作の肝である。「女性なのによく頑張った。だからご褒美を上げよう」では、到底納得いかない。そんな現代女性を代表するアイコンとして、スインはもはや「野球少女」ではなく「野球選手」として、観る者に勇気とやる気を与えてくれるはずである。劇中、ほとんど仏頂面で作り笑いしかしなかったスインが最後に見せる最高の笑顔には、思わず涙がこぼれてしまった。
聖書に登場する女性たちの姿が、この二作の登場人物たちと重なった。聖書の物語では、女性が結構重要な役割を担うことがある。彼女たちの信仰や行動は、信仰偉人としてたたえられる他の男性たちに決して引けを取るものではない。まもなく行われる(のだろうか?)東京オリンピック・パラリンピックでは、男性も女性もない、ただひたすら目標と夢に向かって突き進むアスリートたちの姿を見たいものだ。
両作品を観終わって、次の聖書の言葉が浮かんできた。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
(ガラテヤ3:26、28)
この言葉が人々の心に届き、男女の差異はあっても格差のない社会が私たちの内側から成就することを願ってやまない。
■ 映画「あのこは貴族」公式サイト
■ 映画「野球少女」公式サイト
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