1日目に続きオンラインで開催された第23回断食祈祷聖会(同実行委主催、11~12日)の2日目は、OMFインターナショナル日本委員会総主事の佐味湖幸(さみ・こゆき)氏(福音交友会正教師)が「海外宣教」について、東京聖書学校教授・舎監の原田彰久氏(同校吉川教会副牧師)が「ラディカル・リベラリズム神学」について語った。(1日目はこちら)
身近な存在だった海外宣教
佐味氏が所属するOMFインターナショナルは、英国人宣教師ハドソン・テーラー(1832~1905)が創設した「中国奥地宣教団」を前身とする宣教団体。佐味氏は宣教師としての期間を含め、OMFインターナショナルで29年近く働いている。しかし、クリスチャンホームの出身ではなく、小学生の時に友人に誘われて教会に通うようになった。母教会が所属する福音交友会は、米国人宣教師が戦後に開拓した教団で、祈りの課題の中には常に海外宣教が掲げられていた。そのため、佐味氏にとって海外宣教は身近な存在だったという。
それでも自身が宣教師になるとは考えていなかったという佐味氏。しかし、宣教地視察旅行に行ったことがきっかけとなり、宣教師としての召命を受けた。1992年に宣教師としてフィリピンに派遣され、13年にわたりスラム街宣教や地域開発などに取り組んだ。その後、宣教の前線からは退いたものの、現在は宣教の啓発や動員、宣教師の派遣に関わる働きを担っている。
「宣教の神」と「神の宣教」
自身の経歴を説明した上で、佐味氏は「海外宣教」「世界宣教」「異文化宣教」の違いを説明した。「海外宣教」は、もともとは英国で使われ始めた言葉。日本と同じ島国である英国では「海外(海の外)=外国」となり、海外宣教はすなわち、外国人に対する宣教を意味した。「世界宣教」は字の通り、日本を含めた世界全体への宣教を意味する。一方、この20~30年で使われるようになってきたのが「異文化宣教」。自分の言語や文化とは違う人々への宣教を意味する。グローバル化した現代社会においては、自国においても多くの外国人がおり、異文化宣教は自国でも可能となる。
少子高齢化が進み、無牧や兼牧の教会が増える中、日本の教会は海外宣教をできるのか。「もっとゆとりのある時に考えるべきだと思う人もいるかもしれません。しかしこのような時でも、いや、このような時だからこそ、神様は何と言っておられるのか、何を御心とされているのかを覚える必要があるのではないでしょうか」。佐味氏は、聖書の神は「宣教の神」であり、宣教は「失われた人々への愛、憐(あわ)れみに動機付けられた神の胸の鼓動、心そのもの」だと言う。そして「神の宣教」とは、「神が自身の目的のために人を召し遣わすこと」によってなされるものであり、神が遣わす先は「あらゆる国の人々」(マタイ28:19)だと伝えた。
「統合的宣教」と宣教のゴール
佐味氏によると、1974年に開催された第1回ローザンヌ世界宣教会議で「伝道と社会的責任」が提唱されて以降、「言葉」と「行い」を両輪とした宣教が重要視されるようになった。さらにそれが、2010年の第3回ローザンヌ世界宣教会議で採択された「ケープタウン決意表明」では、「統合的宣教」という言葉に発展した。
しかしこれらは、2千年前のイエスの宣教においても見られるもの。イエスは、罪からの悔い改めを言葉で説くだけでなく、病の癒やしや悪霊からの解放など、罪の縄目からの具体的な解放までももたらした。また、世界宣教においては「大宣教命令」(Great Commission)が強調されるが、「最も大切な戒め」(Great Commandment)についてイエスは、神を愛することと人を愛することの両方を語り、2つとも同様に大切だと話している。佐味氏は、まさにこのイエスの言葉に統合的宣教が表されていると語った。
宣教のゴールについては、「神の偉大さの中に人々が喜ぶこと」という米神学者ジョン・パイパー氏の言葉を紹介。このために神は今も人を召し、まだ福音が伝えられていない人々の元に私たちを遣わされるとし、「これが神の御心ならば、どのような時代、どのような状況にあっても、教会はこのこと(宣教)を最優先すべきではないでしょうか」と語った。
世界宣教の現状
世界宣教の現状はどうなのだろうか。大陸別に見ると、この近年で宣教が大きく前進したのは中南米とアフリカ。アフリカでは特にサハラ砂漠以南で多くのクリスチャンが生まれており、現在、世界の福音派の3分の1はアフリカにいるという。中南米やアフリカから派遣される宣教師もおり、これらの地域の国々は、かつては「被宣教国」だったが、今では「宣教国」に変わりつつある。
その一方で、いまだに福音が伝えられていない地域も多い。世界的な基準で見ると、クリスチャン人口が少ない日本もいまだに「未伝国」(福音が十分伝えられていない国)だ。世界的に見ると、北緯10度から40度の間の地域(10/40 Window)に未伝の人々が多いとされ、これらの地域は同時にクリスチャンに対する迫害が厳しい地域でもある。日本を含めた東アジアは宣教が遅れている地域の一つで、福音を聞いたことがない人は6億6700万人に上る。
世界宣教に携わる6つの方法
OMFインターナショナルでは、①学ぶ、②祈る、③他の人を励まし巻き込む、④歓迎する、⑤送り出す、⑥出て行く――を「宣教に携わる6つの方法」としている。「学ぶ」については、近年はインターネットで多くの情報を得られるとし、佐味氏も積極的にネットニュースなどを活用していると話した。「祈る」については、漠然と世界宣教のために祈るのではなく、学んだ情報を基に各地の状況を踏まえ、より具体的に祈ってほしいと求めた。また「歓迎する」は、自国に来る外国人に対する宣教を意味し、日本国内にいても可能な異文化宣教だと語った。その上で、クリエイティブな宣教戦略や日本国内における異文化(ディアスポラ)宣教のため、また迫害下の教会のためなど、世界宣教に関わる幾つもの祈りの課題を分かち合った。
ラディカル・リベラリズム神学とは?
続いて講演した原田氏は、西南学院大学名誉教授の青野太潮氏が東京バプテスト神学校の公開講座で語った内容などを例に挙げ、ラディカル・リベラリズム神学について語った。
ラディカル・リベラリズムとは「急進的な自由主義」を意味する。原田氏は、神学分野においては多く見られない言葉だとしつつも、牧師を育成する場である神学校で青野氏が、「『教会の信仰』という色めがね」をかけずに、文献学の基本に立って「素直に聖書を読む」ことが大切などと語っていたことを、自身の見解を交えながら紹介。「聖書を学問的に批判して読む」のみであれば、単なるリベラリズム(自由主義神学)だが、教会の伝統的理解や組織を拒否しすべてを相対化することに「ラディカル」(過激で急進的)になる原因があると指摘。ラディカル・リベラリズム神学の本質は、リベラリズムに加え「教会を批判する」ことにあると語った。
ラディカル・リベラリズム神学にどう向き合うか
その上で、ラディカル・リベラリズム神学にどう向き合うかについては、①教会の旗色をはっきりさせる、②文献学の意義と限界を知る、③教会で聖書を共に読み成長する――の3点を提示した。
原田氏は、日本基督教団の教会で信仰を持つようになるが、その教会も福音派との関係が強い「ホーリネスの群れ」に属しており、学生時代はキリスト者学生会(KGK)で活動し、大学卒業後はいのちのことば社に勤務するなど、「福音派にどっぷりつかっていた」という。20代後半で献身を決意。しかし、母教会が日本基督教団であったため、入学したのはリベラル色の強い東京神学大学だった。入学時には「私は福音派です」と宣言し、自身の信仰的立場を明確にしたという。授業を受ける中で聖書信仰が揺さぶられることも多くあったというが、「学べば学ぶほど、聖書信仰を大切にしたいと思った」と言い、「主流派の中の福音派」を目指した自身の経験から「旗印をはっきりさせる」ことの大切さを語った。
文献学については、短く簡単な文章の方が長く複雑な文章よりも古いと考える仮説を基本とした学問の一分野だと説明。信仰の有無を問わず聖書を研究できるなどの意義はあるものの、東京神学大学時代にその基礎を学んだ経験や、新約学の教授から言われた「ブルトマンで教会は立たない」という言葉を紹介しつつ、文献学や高等批評学が持つ限界性を語った。
その上で、教会とは「イエスを『あなたはメシア(救い主)』と告白する者たちの群れ」だと説明。個人の信仰を大切にしつつ、その信仰を成長させ教会に結び付けていくことの重要性を語った。