「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:19、20)
教会の中には、この世の中や社会の法則や論理とは違う、ここにしかない特別な命と特別な原理原則が存在しています。それは、単なる金もうけの損得勘定や好き嫌い、人の注目度や話題性ではなく、神から与えられた命や聖書のお言葉に基づくものです。そこに教会らしさが溢れています。
教会に存在する特別な力や原動力の中心は、罪深い私たちを救うためにこの世に来てくださり、十字架の上で命を捨ててくださった主イエスです。私たちに与えられる命はこの世で終わるのではなく、天国まで続くことを証明するために、イエスは死の力を打ち破り、よみがえって神の恵みを証明されました。この十字架と復活のイエスが私たちと共にいてくださり、教会のど真ん中におられるから、世の中の団体や金もうけのグループとは違うのです。
ガラテヤ人への手紙は、パウロが初代教会の人々に書いたものです。単に宗教としての教えや理論を伝えるのではなく、救い主イエスを信じることによって与えられる大きな恵み、特別な祝福、つまり神によって与えられる奥義(秘密、隠されている、特殊なものの意)があり、私たちはクリスチャンとして、奥義を実体験できると語っています。
教会生活が当たり前になりすぎて、ワクワクドキドキ期待することがなくなっているのでは残念です。クリスチャンは、人間の努力や訓練では身につけられない、特別な霊的な現象や霊的な賜物、奥義、秘義、必殺技ともいうべき大きな恵みを頂いているのです。クリスチャンとして与えられている大きな恵みを再発見し、再確認したいと思います。
1. 罪人でありながら義と認められている
どんなに良いことをして愛の込められた行いをしようとしても、しょせん罪びとの悪あがきで、心の中は人をうらやんだり、憎んだり、罪深い性質のままであることは、逃がれられない事実です。それでも私たちが清められて、神との関係を回復する方法があります。それはただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ、罪が清められることです。
2. 古いものは死にキリストがうちに生きる
一見ありそうもないことが起こっています。古い私たちは、イエスが十字架につけられたときに一緒に死にました。今は弱い私たちでありながらも、キリストの命が私たちのうちに生きておられます。パウロは言います。「私は土の器です。しかし、その内側に神の光、キリストの命を宿しています」(Ⅱコリント4:5~7参照)。
クリスチャンの人生は不思議です。単に宗教の道徳や倫理を学ぶのではなく、イエスの命と重ね合わせられています。私たちは独りぼっちではありません。神の命と愛が私たちと共にあるのです。この恵みを体験して前進しましょう。
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