8月12日、米南部バージニア州のシャーロッツビル(Charlottesville)で白人至上主義団体(アルトライト、KKKなど数百人)と反対派が衝突し、死傷者が出る事件が発生した。反対派に1台の車が突っ込み、1人が死亡、19人が負傷を負った。この事件の発端は、南北戦争で南部連合の総司令官だったロバート・E・リー将軍の像を撤去しようという動きが表面化したことである。
南部人にとって、前回取り上げたような「南北戦争のからくり」は二重の屈辱であった。まず、戦争に負けて「敗者」となったこと。その遺恨は根強く、北部への反骨心は世代を超えて脈々と受け継がれていくことになる。次いでイデオロギー的に「悪者」となったこと。「南北戦争は、正義の鉄ついが北軍から南軍へ下されたもの」とされ、奴隷制度の人道的側面が肥大化され、「勝者の側にとって都合のいい歴史化」がなされたことである。
今回の像撤去の決定は、州知事と市長が民主党に属していることからしても、リベラル的観点から行われつつある措置だと言えよう。しかし、どうしてこの時期に、またこれほど混乱している時期に行わなければならなかったのか。私は大いにその点が疑問である。
見方によっては、「米国の歴史は北部が書き換える権利を持っている」とアピールしているかのように思える。KKKや他の保守的集団に対し「白人至上主義」というレッテルを貼り付けることは、確かにダイバーシティー(多様性)を善とするプロパガンダにはなるだろう。しかし、だからと言ってWASP(白人でプロテスタント信仰を持つアングロサクソン民族)による米国形成という歴史的過去をなかったかのように葬り去ることは、米国史全体に対する重罪ではないだろうか。
像撤去に反対する彼らに対して「家に帰れ。出て行け」と訴えることこそ、マスコミが訴える「米国分断」を助長することにならないだろうか。このような発言が、実は「分断国家アメリカ」に一歩踏み出させる契機となっていることに気づくべきである。
そういった意味で「トランプ大統領が米国の分断を助長した」という論調は大いに警戒すべきものである。なぜなら、自国の歴史を自分勝手に書き換えようとする志向性は、この論調によって大義を得てしまうからである。ホワイトハウスが急きょ名指しでデモ主導者たちを非難したことで、この論は追随され、現時点では半ば既定路線となってしまった。
リー将軍の像が南部人のアイデンティティーを保持する象徴である以上に、米国の歴史を物語るマイルストーンであることは否定できない「歴史的事実」である。米国は常に「革新作用」と「統合作用」が対峙(たいじ)することでバランスを取ってきた国家である。その間で米国が必死に模索し生み出してきた歴史を、一方の目をつむって「都合の悪い箇所をデリートせよ」というのか。これこそ、長きにわたって人種差別を生み出してきた米国の宿痾(しゅくあ)ではなかったか。
ちなみに、同じような思考で米国人は、ネーティブ・アメリカン迫害の歴史に対し、長きにわたってその目を向けてこなかった。その視点の欠落を痛烈に示す契機となったのは、1990年に公開されたケビン・コスナー監督の「ダンス・ウィズ・ウルブス」である。この作品がアカデミー賞を取ったことで、ネーティブ・アメリカンの歴史はサブカルチャーの世界でやっと保持されてきたと言えよう。
米国は今一度、建国の理念に立ち返るべきであろう。移民の国として生み出された「壮大な実験国家」は、いまだ完成形を知らず、常に「共通の未来」に向かって突き進むことを初めに決心し、そして動き出している。その過程で彼らが行った所業は、確かにすべてが褒められたものではない。国家的規模で飲酒を禁じたり、肌の色であからさまな差別を生み出したり、他国に出掛けてまで干渉を繰り返したり・・・。だが、それを真正面から受け止め、その誤りや行き過ぎをそのまま受け止める真摯(しんし)な姿勢があってこそ、米国は「神の国を目指す国家」としてのアイデンティティーを次世代に受け継がせることができるはずである。
米国の根幹が揺れ動いている。過去の歴史を消去しようとしたり、いたずらに最高権力者の所業を非難するために批判の声を上げたりする行為、これは「分断」という生易しいものではない。建国以来の理念が瓦解(がかい)しつつあると言えよう。言い換えれば「メルトダウン」である。
米国は長く「人種のるつぼ」「人種のサラダボウル」と言われてきた。しかし、「人種の」という枕ことばを置けるのは、それ以外において彼らが「米国市民」としてのアイデンティティーを形成しているからである。そのアイデンティティーがメルトダウンするとしたら、もはや米国は United States(統一された諸州)ではなくなってしまう。単なる America は合衆国ではない。有機体的結合が溶け出しているとしたら、米国全体が病んでいくことになる。
このような視点で米国を語るメディアは存在しないのだろうか。
一キリスト者として、日本人牧師として、米国宗教研究者の端くれとして、そんなことを思わされた事件であった。
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