8月12日、米南部バージニア州のシャーロッツビル(Charlottesville)で白人至上主義団体(アルトライト、KKKなど数百人)と反対派が衝突し、死傷者が出る事件が発生した。反対派に1台の車が突っ込み、1人が死亡、19人が負傷を負った。さらに一部報道によると、この事件の対応に追われていた州のヘリコプターが墜落し、警官2人を含む3人が死亡、35人が負傷したという。メディアは早速お決まりの「分断されつつあるアメリカ」という論調に人種問題を取り込み、ひいては「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」を打ち出したトランプ大統領への批判を展開している。
このような流れを見ると、正直「またか」と思う。メディア規制をめぐっては、ホワイトハウスとリベラル系メディア側で泥仕合が展開されている。その流れをくんで、日本でも同じような論調でこの事件が語られる。例えば朝日新聞(8月14日朝刊)の見出しは、「白人至上主義者、反対派らと衝突」(2面)、「『白人至上主義』に批判 米デモ衝突、与野党から」(4面)となっている。
批判の矛先はトランプ大統領にまで及ぶ。大統領がこの事件に対して「さまざまな立場(many sides)」の人の憎悪と偏見、暴力を強く非難する」と発言した。これを、対立する双方へ向けてのケンカ両成敗的発言と捉え、「どうして大統領は具体的な(白人至上主義)団体名を挙げないのか」とメディア各社は突き上げる。共和党・民主党各議員からの懸念の声をクローズアップした取り上げ方は、日本にいる第三者の私から見ても、いささか奇異に思える。
翌13日、ホワイトハウスはこれらの論調にあおられてか、「大統領はあらゆる形態の暴力、偏見、憎悪を非難したが、それにはもちろん、白人至上主義者や(白人至上主義の秘密結社)クークラックスクラン(KKK)、ネオナチと、すべての過激主義者の集団が含まれている」との声明を出し、火消しに必死になっている。
収まらないのは、事件が勃発した地域の政治家たちだ。シャーロッツビルのマイク・シグナー市長(民主党)はCNNテレビの取材に応じ、「トランプ氏が大統領選で白人至上主義者を批判しなかったことがそもそもの原因だ。(このような)事件が起きる背景となったことは明白」とコメントを発表した。また、バージニア州のテリー・マコーリフ知事(民主党)は、「今日、シャーロッツビルに入ってきた白人至上主義者やネオナチに伝えたい。われわれのメッセージは単純で簡単だ。『帰れ』。この偉大な州はお前たちを歓迎しない。恥を知れ。お前たちは愛国者のふりをするが、お前たちは愛国者とは程遠い」と強い口調で非難している。(その実際の映像)
その後、トランプ・タワー前ではトランプ大統領を糾弾するデモが展開されているという。
しかし、肝心の事の発端に触れる記事はあまり見当たらない。そもそも「白人至上主義者(メディアがそう呼ぶので今の段階では私もそう表記する)」がなぜ集まって来たのか。それは、南北戦争時の南部連合指揮官であったロバート・E・リー将軍の像を撤去する計画が持ち上がったことに端を発している。この像の撤去をめぐっては、7月上旬から何度もデモが繰り返されてきた。
確かにリー将軍に象徴される「南部連合(南軍)」は、奴隷制維持を求めて連邦政府(北軍)に反旗を翻した。結果、南軍は敗北し、リンカーン大統領が1863年に発布した「奴隷解放宣言」は実質的な効力を持つことになった。そして、連邦政府による南部地域への「指導(という名の支配)」が始まった。これは歴史的事実である。
しかし、ここで私たちはイデオロギー的バイアスを受けてしまう。多くの者は、「奴隷制度」というと悪しき象徴と受け止める。そして、この悪は南北戦争によって打倒されたと理解されている。だが、このような見方は、厳密に言えば、米国史の歪曲(わいきょく)でしかない。
北部地域は英国産業革命の余波を受け、機械工業による発展が期待されていた。だから、旧システムである「奴隷制」を排除しても、各州は十分に立ち行く状態であった。さらに人道的側面を強調することで、諸外国との貿易がスムーズに展開するという利点もあった。ストウ夫人の『アンクルトムの小屋』がこのようなプロパガンダの一環として発表されたという事実を、いったいどれだけの人が知っているだろうか。
北部地域は黒人奴隷を解放した。しかし、産業化の流れの中で、彼らを低賃金で雇って使い捨てにするか、あるいは、のけ者にして実質的なサポートは与えなかったのである。奴隷解放宣言後の黒人たちの様子を端的に言い表した言葉として「自由以外は身ぐるみはがされた」というものがある。これは彼らの正直な実感だっただろう。
一方、南部は綿花製品の出荷から得られる利益によって各州が成り立っていた。綿花を摘む作業は一部機械化されたとはいえ、まだまだ人海戦術が主流であった。つまり奴隷は、「高価な労働力」として彼らの経済を支える、なくてはならない存在だったのである。彼ら南部連合が守ろうとしたものは、奴隷制度そのものではなく、それによって成り立っていた彼らの経済システムの根幹だったのである。
北部地域は、自地域の産業化と利益のために奴隷制度を廃棄し、加えて黒人たちを排除しようとした。一方、南部地域は、非人道的な奴隷制度を存続させ、黒人たちを酷使することで、自分たちの経済的基盤を守ろうとした。どちらにせよ、黒人たちにとっては「いい迷惑」であるし、彼ら自身を「真に解放する」世界は、1960年代以降を待たなければならなかったと言えよう。
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