――日本の教会やキリスト教世界は「戦争反対」であり、従軍チャプレンを「異様なもの」と受け止めるんですが、米国では建国の時代から存在した制度だと書かれていました。世界的には戦争と宗教者はものすごい古い歴史があって、古代の戦争の勝利を祈願したシャーマニズム的なものにすらさかのぼるのかもしれない。だから、日本の受け止め方は、実は倒錯しているのかもしれませんよね。
そうですね。もし「従軍チャプレン制度はおかしい」「だめだと思う」なら、はっきりと言ってほしいですよね。「難しい問題ですよね」というコメントに留めて、ご自分の意見ははっきり言わないところが、日本の今のキリスト教界を象徴しているのではないでしょうか。
――個人的に私は、長崎と占領期の教会形成に興味があるんです。日本キリスト教史では、戦争以降の研究というのは、「戦責告白」や「戦争責任」をめぐる議論しかないんですよね。これは日本キリスト教史の第一人者の同志社大学の原誠先生がおっしゃっていたんですけれども。長崎で、占領期の教会再建について研究している方もいらっしゃいます。敗戦時、日本は米国のキリスト教民間団体から「ララ物資」が大量に送られてきて、日本人はそれで飢えから助かった。そして「ララ物資」の配布場所は教会だったそうです。だから「教会に行けば白いパンと脱脂粉乳がもらえる」という状態で、キリスト教は解放者アメリカの宗教であると同時に、生活の上でもメリットがある場所だった。だからキリスト教徒が増えた。米国の費用と宣教団で再建した日本のプロテスタント教会が、「戦争反対」「基地反対」というのは、歴史的に考えたら根っこがない議論ではないかとすら思うんです。だから信用が得られないのではないでしょうか。その歴史意識のなさやあいまいさが根底にはあるのではないか、とすら個人的には思ってしまいます。
なるほど、本当に大切なことをやらずに神学や聖書学の議論ばかりをしているというか・・・。そういう面も含めて、キリスト教会も自分も含めて人間はその程度のものでしかあり得ないというのが「原罪」というものなのかなと思いますね。
私の原点には、不謹慎でありよくないと分かっていても、なぜ戦争について考えることに惹(ひ)かれるのか、ということがあるんです。そして、戦争について考えることが間接的に「人間について」「宗教について」「キリスト教について」考えることになっているのかなと思うんです。人間のものすごい醜いところが赤裸々に暴き出されるし、一方でコルベ神父の物語のようなものすごい崇高さ・極限状態の中の素晴らしい生き方も現れてくる。
戦争という舞台を十分に見つめれば、人間の本性の良い面と悪い面が両方見つけられる。そういう意味では、宗教学として宗教そのものを探求するよりは、戦争を通して人間を見つめるほうが結果として宗教学になっているような気がするんです。
――それは石川さんがパウル・ティリッヒ研究から始められたことも関係しているんでしょうか。
そうですね。ティリッヒは「何をもって『宗教的な芸術』と言えるか」ということを論じています。彼は「いわゆる十字架のイエスやマリア像、聖書や宗教的なテーマが描かれているから宗教的と言えるわけではない。描かれているのは何でもいい、普通の世俗的な生活でも、それが人間の実存に関わる問題を訴えるような描かれ方がされていれば宗教的であり得る」と論じていて、それがティリッヒのプロテスタント理解なんです。
私もおそらくそれを引きずっていて、キリスト教それ自体を考えるより、戦争という究極の出来事に思いを馳せるほうが、私は「宗教的」な感じがするんです。
宗教そのもの、キリスト教そのものについていくら考えたところで、肝心なものは出てこない、と最近私は思います。宗教、宗教と言っている人よりも、戦場の一線をくぐってきた人のほうが、人間とは何か、社会とは何かをずっと一生懸命考えているのが分かるんです。だから、なまじ聖書を外国語で読むより、戦争の現実を学んだほうが、よっぽど大事な部分が分かるのでは、なんて思ったりもします。
――『宗教と現代がわかる本2016 聖地・沖縄・戦争』(渡邉直樹・責任編集、平凡社)の中で石川さんは、人間は残酷なもの、破壊的なものにも興味を持ってしまうとしてこうおっしゃっていました。「人間がどうしてもそこに興味をもってしまうところがキリスト教でいうところの原罪、つまり人間が生まれながらにもっている不完全さの認識である気がする」。それがとてもユニークだし、実感がこもっていて、石川さんのキリスト教信仰につながっているのではないかなと感じました。
いろいろキリスト教の悪をあげつらっていますけれど、自分のアイデンティティーはキリスト教徒というところにあるんです。ある書評では「キリスト教徒が書いているからまだ甘い」という批評もありました。一方でキリスト教徒からは厳しいと思われる。どちらからもご満足はいただけないのかもしれません。
最近は、自分で「自分がキリスト教徒です」と言っていいのか、とも迷うんです。宗教で自分をアイデンティファイするのがおかしいし、他人に「あなたに信仰はあるか」「足りない」と言われること自体おかしいと。それは生き方の問題であり、たたずまいの問題なのだと思います。でも、少なくとも自分の立ち位置を宣言するために「キリスト教徒だ」とは書きました。
――『キリスト教と戦争』の終章が「愛と宗教戦争」という1章になっていて、最後に「愛は命令である」と書かれていますよね。
私たちが「愛」だと思っているものは、ただの自己申告にすぎないのかもしれません。ヨハネによる福音書15章17節に「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」という言葉があります。戦争のことを考えれば考えるほど、この素朴な言葉は重いですよね。愛せないからこそ「愛せ」という不可能性の「命令」なのだと思います。
――最後に田川健三を引用されてますよね。
キリスト教は愛の宗教です、というのは、建前にすぎない。表向きの看板である。この種の表向きの看板には、嘘(うそ)と偽善が常につきまとう。しかし、それでも、彼らはこの看板を下ろすことはしなかった。こういう看板をかけている限り、自分たちは愛の宗教なんです、と言い続けている限り、なるべく忠実にその看板を実現しようとする人たちが、常にキリスト教の内部に出現するものだ。そしてそれがキリスト教を支える力となってきた。だからますます、この看板を下ろそうという気配はない。(『キリスト教思想への招待』[勁草書房]より)
田川さんのこの言葉は、全くその通りだと思ったから最後に引用しました。この本を書いて、「石川君、この本は要するに、誰でも排泄するってことを書いた本だね」と言われたことがあるんです。確かにそうかもしれない。でも、自分は研究者として、正直さを売りにするしかないのだと思います。
――ありがとうございました。