「皆さん、想像してみてください。今、この状態から急にどこかに逃げなくてはならなくなってしまった日のことを・・・。そして、そこに2度と戻れないとしたら・・・どう思いますか?戦争になると、そんなことが起きるのです。私にも、ルワンダに家がありました。欲しいものを買って、普通の暮らしがありました。幸い、私は希望のある日本に来ることができました。ぐっすり眠れたあの日を一生忘れません。これが平和なのです。皆さん、今日からそれを噛みしめて生きてください。そして、絶対に平和を失わないでほしい」と話し、第2部の講演を始めた。
マリールイズさんは、2000年に「NPO法人ルワンダの教育を考える会」を設立。現地に学校を作り、支援している。「私は今まで受けてきた教育のおかげで、今日まで生き延びてこられた。ルワンダには教育が必要だと思ったので、学校を作りたいと強く思った」と話した。
学校を作ろうと、現地ルワンダで準備を進めているとき、マリールイズさんは、1人の少年に出会った。少年に「将来、何になりたいの?」と尋ねると、不思議そうな顔をして、「僕が大きくなるまで生きていると思う?」と逆に聞かれたという。そのことに大きなショックを覚え、「明日、生きるということすら信じられなくなる・・・これが戦争だと思った」と話した。ここが彼女のスタートラインだった。ここにいる子どもたちは、毎日、水を汲みに行くことで1日が終わり、学校とは無縁の生活を送っている。「この子たちを学校に通わせてあげたい」と思った。
その後、学校が開校して1カ月、同じ質問を学校に集まった子どもたちにしてみると、口々に「先生になりたい!」と言ったという。学校に通うことで自信がついた子どもたちは、将来への希望を見いだしたのだ。
毎日、ごはんを食べられない子どもたちのために、給食も用意した。日本の給食のように献立表を作り、給食室の前に貼ることにしているという。給食は、学校に通う子どもの保護者が皆で協力して作っている。子どもたちの保護者の多くが、ルワンダの内戦を経験している。弾丸が飛び交う中を逃げ惑い、親や兄弟を失った人もいるという。給食を作る時間は、そうした保護者が悩みを分かち合う時間にもなっている。
こうして、卒業した子どもたちの中には、現在、長崎大学医学部で学ぶ学生もいる。「日本の集団健診を彼には学んでもらっている。ルワンダでは初めての試みとなりますが、私はこれを母子手帳とともにルワンダに広めたいと思っています。日本の良い習慣をルワンダに少しだけお借りしたい。ルワンダには、1人も小児科医がいないのです。早いうちに病気を発見して、治療をしてあげたい」と話した。
現在、この学校には280人の幼稚園児から小学生が通っている。「日本からの支援がなければ、彼らは学校に通うことはできなかったと思う。子どもたちが安心して眠れる時間、場所。それが『平和』なのだと思います」とマリールイズさんは話す。
また、昨年、シリアで殺害された後藤健二さんが、2008年にルワンダを訪れた際に通訳を務めたというマリールイズさんは、彼の死を悼んで、本紙のインタビューにこのように答えた。
「彼とは、もう一度仕事がしたいと思っていました。一度、一緒に仕事をしたら、また一緒に仕事がしたいと思える人。温かで、真面目な人柄は今でもはっきり覚えています。本当に悲しい。ルワンダで『ジャーナリズム』の授業をしてくれると話していた矢先だったのですよ」と話した。後藤さんは、著書『ルワンダの祈り』の中で、大虐殺で犠牲になった女性や子どもたちのことを語っている。
ルワンダの内戦、大虐殺は「カトリックの信仰を持つ1人として、どのように映ったか」とマリールイズさんに質問してみると、「神様は私たちに訴えようとしていたのではないかしら。あのような戦争、虐殺はあってはならない。私たちに『目覚めて!』と訴えていたのかもしれない」と話した。「聖書の教え通り、日々感謝することは、難しかったのでは?」と尋ねると、「何を言ってるの! 毎日、感謝しかなかったわよ。毎日、生かされているのよ。命があるのよ。それだけで感謝だったわ。でもね、夜は本当に怖いの。だから、夜は『神様、どうか私たちをお守りください』と祈るのよ。そして、美しい朝を迎えたら、『神様、新しい朝をありがとうございます』と感謝するの。日々祈り、全てのことに感謝するのよ。神様は、決して私たちを見捨てない。これは、私が確信したこと」と答えた。
現在のルワンダでは、女性国会議員の割合が64・25パーセントに上り、国会議員の女性比率が最も多い国の1つになっている。教育、福祉などの分野には、女性の大臣が就任し、大きく国を動かしている。また、宗教の自由が守られ、復興は徐々に進んでいるという。