⑦ 細胞・・・全ての生物が細胞を基本単位として構成されている。単細胞生物は例外的で、ほとんどの生物は細胞が多数集まって多細胞生物となっている。同種の細胞が多数集合し、連結して、体の組織を形成し、組織が別の組織と巧妙に組み合わさり、結合して器官を形成し、器官や組織が集まって、1つの生命体となる。
成人は60兆以上の細胞から成る。その個体はどれも精妙極まりない、驚異的かつ神秘的な存在となり、形態も生き方も実にさまざまとなっている。
その基本である細胞そのものが、平凡なものでも約10兆の原子から成り、複雑・精巧で実にうまくできている。しかも、細胞には寿命があり、常に一部が死滅し、新しく増殖した細胞と入れ替わっている。ヒトの赤血球細胞の平均寿命は約120日で、1秒間に何と250万個の細胞が死滅しているが、それに合わせて補給されている。
(あ)細胞は全ての生物体の形態的・機能的な基本単位である。
(い)生物の性状はそれを構成する細胞の性状に由来する。
(う)細胞から細胞へと、遺伝的物質(DNA)を通して遺伝的連続性が保たれる。
細胞は、核質・細胞質・細胞膜から成る。
(核質)に、クロマチン、染色体、核小体〈仁〉核基質がある。
(細胞質)に、基質、細胞質ゾル、細胞骨格〈微小繊維・微小管〉、内膜系〈核膜・粗面小胞体・滑面小胞体・ゴルジ体〉、膜性器官〈ミトコンドリア・葉緑体(植物のみ)・リソソーム・ミクロボディー〉、小顆粒(リボソーム)、微小管器官〈中心体・基粒・せん毛・鞭毛・紡錘体〉がある。
(細胞膜)は、細胞壁(植物のみ)、原形質膜、細胞外皮(植物のみ)から成る。細胞膜は、外界との境界である。細胞同士の相互認識や免疫、細胞同士の接着、増殖の促進や阻止の働きを担っている。その機能の未解明な部分がいっぱい残っている。また、細胞膜は外界から養分を取り入れ、細胞内の分泌物や老廃物を外に出して、細胞を維持している。細胞膜はリン脂質の二層膜であり、選択的透過性を有している。これらは、どれも実にうまくできている。
このほか、上のリボソームと小胞体、ミトコンドリア、ゴルジ体、葉緑体などがそれぞれ重要な、独特な働きをし、相互に協力して、細胞は生成し・活動し・分裂し・増殖し・死滅する。単に存在するのではなく、生きている。元来は元素・分子が集まったものであるが、単に集まっただけでは動かないものを、特定の組み合わせに結びつける仕組みによって、上述のように生きる。この生きている細胞の集合、結びつきなどによって、生命体が生き・活動する。これらが自動的に、あるいは偶然に、たまたまできるとはどうしても思えない。考える主体が賢明な知恵によってそのようにした、と考える方が無理がない。
人は粘土やコンクリートを練り上げ、うまく焼き上げ、レンガやブロックを造る。それを積み上げて住宅を建て、あるいは塀を建て、あるいは橋脚を造り、煙突を立て、あるいはビルも建ててきた。レンガやブロックがひとりでに住宅やビルや塀、煙突になったのではない。建築家がよく考えてレンガやブロックを用い、建造したのである。そのように、創造者はうまく造った共通の材料を用いて、生物のいろいろな部分、器官などを造り、ついには生物全体にまで組み立てた、と考えられる。
➇ DNA遺伝情報システム・・・DNAは、デオキシリボ核酸といい、細胞の一つ一つの核の中に埋め込まれていて、全てのタンパク質の製造に必要な遺伝子情報を提供している。具体的には、リン酸と五炭糖の二重螺旋(らせん)の鎖の中、その糖のある炭素の先に4種類の塩基(アデニン、グアニン、シトシン、チミン)のどれかが繰り返しくっついているもので、その順番がタンパク質合成の指示指令となっているものである。全長約1・8メートルの極めて細い糸状のものである。
タンパク質が生命体になるためには、アミノ酸が定められた通りの順番で正しくつながり、できたタンパク質が正しい方法で組み合わされねばならないが、DNAはこのタンパク質の生成過程を指示するのである。コンピューター・ソフトは、1と0、プラスとマイナスという2種類の文字でプログラムが組まれるが、DNAは、4種の塩基の配列で整然とプログラムを組んでいるようなものである。
全ての生命体は親から子へとDNAによって遺伝情報が的確に伝えられ、種や個体が継続していくが、そのDNAがコンピューター・ソフトのプログラム以上に精密な4種の塩基配列という4文字指令のプログラムになっているとは、驚嘆以外の何物でもない。知性に溢れた素晴らしくよくできたものである。これがひとりでに、偶然にできたものとは到底思えない。
コンピューター・ソフトが、考える人間がいてよく考えて作成しないとできないように、DNAというある種のソフトは、それ以上によく考える主体“神様”がいて造らないと到底できるものではない。この理屈が分かるでしょう!
➈ 人の精神・・・生体の細胞はおよそ10兆の原子から成り、人の体はおよそ60兆の細胞から成る。数カ月でほとんどの細胞は新陳代謝して別の細胞に置き換わるが、その人自体、その個性は変わらない。
人間の特性は考える点にある。パスカルは、「人間は自然のうちで一番弱いひと茎の葦(あし)にすぎない。しかし、それは考える葦である。・・・それ故、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それ故、われわれはよく考えるように努めよう」と言う。
人間の特性は、考えるという精神、意識、魂にある。考えた結果、話し、書き、歌い、叫び、悩み、動き、操作し、運動し、物を造り、要するに、人たるにふさわしく生きるのである。(そうでないこともするが)そのために必要な体が与えられるわけだ。
宇宙の歴史は、物体に物理作用を適用する物語で、そこにある物体の配置が徐々に複雑化していくことはあるだろう。しかし、そこから完璧に非物理的なものが生まれることはない。「初めに粒子があった」がスタートなら、宇宙の歴史は単なる粒子の再配列のお話である。より複雑な配列が得られたにせよ、それが粒子であることに変わりはなく、意識や精神にはならない。
時に、「意識は脳の複雑性から派生した当然の副産物である」とする意見もあるが、それでは物に精神を発生させる潜在能力があらかじめ含まれていたとでもいうのか。それは自然主義ではなく、汎神論だ。また、意識が脳の機能にすぎないなら、私という存在はすなわち私の脳であり、それは化学法則や物理法則にのっとって動く脳機能だということになる。しかし、脳機能が何かを生み出すことはできない。
また、精神が物から出現するなら、それを尊敬したり、評価したり、信頼したりすべきものではないことになる。私の信念が真実だという根拠も得られないことになる。脳内で脳神経の連絡・結びつきが、私の思索、信条、価値観、愛、希望に発展するのだろうか。
「神である主は土地のちり(小さい物質)で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記2:7、1:27)
物質であるが、そこに神の命の息を吹き込まれた。それなら分かる。それで人は自己意識を持ち、論理的・理性的・道徳的に思考することができるようになったのだ。それによって、世界を知り、自然法則を徐々に発見し、生活・産業・文化を築いてきたのだ。それが神のかたちのなせるところだ。人の精神はひとりでに‟物”からできたものではなく、神の創造、命の息によりできたものである。人の精神は神の創造の証拠である。
以上の通り、この世界の実にたくさんの物が、たくさんのことが神の創造を指し示している。
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