「あの会社はクリスチャンの会社だから信頼できる」とか「子どもはクリスチャンの学校で学んでいるから安心だ」という言葉をよく聞く。でも「クリスチャン」という意味をよく考えないと、判断を誤る場合がある。
“Christian”という言葉は、聖書の中に3度しか使われていないが、その意味は「キリストに従う者」である。「者」は個人を指す言葉であり、法人とかグループには使われない。罪を悔い改め、許しを得るのは個人であり、キリストに従うのも個人である。善悪はあくまでも個人の問題で、団体が罪を犯すことはできない。
また団体は正しいことを行うこともできない。なぜなら団体や法人には心がなく、善悪の判断をすることができないからだ。何が正しいかを判断し、それを行動に移すのも個人である。
命の書に記される名前は、あくまでも個人名であり、団体名ではない。ところがわれわれは心の存在しない団体をクリスチャンだと思い込み、無条件で信じてしまう傾向がある。
“Christian school”とか“Christian company”という呼び名は、本当は正しくない。“ a school / company operated by Christians(クリスチャンによって運営されている学校・会社)”が正しい表現だ。
“Christian”という単語は大文字で始まるが、実は固有名詞でもなく、身分を表す言葉でもない。Christianの英語での意味は“follower of Christ”であるが、“follower”は、動詞“follow(従う)”を前提とした名詞化表現なので、動詞的な意味が強い。動詞の特徴は「動的」であり、名詞のように「静的」ではない。
具体的にいうと “follow”しているときだけ“follower”であり、“follow”していないときは“follower” ではなくなる。すなわち人は、クリスチャンであるときと、クリスチャンでないときがあるということになる。もし経営者が経営方針において“follower”でなかったなら、もはやその学校や会社はクリスチャンと無縁なものになる。
ましてや団体をクリスチャンだと決め付けることはできない。いわゆるキリスト教主義の学校に入学した多くの学生は、聖書の教えに固く心を閉ざして卒業する。中途半端に聖書のことを知っているので、もはやメッセージが心に届かないのだ。
「キリスト教主義」には「心」は存在しない。主義は人格ではないからだ。私の知っているアメリカの神学校の教授が「私たちの子どもは“Christian school”には通わせません」と言ったとき、私は最初つまずいた。でも学校がクリスチャンにはなり得ないことを知ったとき、その意味がよく分かった。
私たちクリスチャンと呼ばれる者は、パリサイ人になりやすい。自らが罪許された罪人であることを忘れ、人の悪口を言ったり非難したりしてしまうからだ。せっかく教会に来始めた人をつまずかせ、暗闇の中に放り投げてしまうこともある。そんなことをしたら、われわれはもはやクリスチャンではない。キリストに“follower”してこそクリスチャンなのだ。
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木下和好(きのした・かずよし)
1946年、静岡県生まれ。文学博士。東京基督教大学、ゴードン・コーウェル、カリフォルニア大学院に学ぶ。英会話学校、英語圏留学センター経営。逐次・同時両方向通訳者、同時通訳セミナー講師。NHKラジオ・TV「Dr. Kinoshitaのおもしろ英語塾」教授。民放ラジオ番組「Dr. Kinoshitaの英語おもしろ豆辞典」担当。民放各局のTV番組にゲスト出演し、「Dr. Kinoshitaの究極英語習得法」を担当する。1991年1月「米国大統領朝食会」に招待される。雑誌等に英語関連記事を連載、著書20冊余り。