「加害者」としての日本の歴史
1995年のオープンから今年、開館20年目となる岡まさはる記念長崎平和資料館(長崎市)は、約30人のボランティアによって運営されている。岡正治牧師と共に活動し、現在は「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」代表で、同館の理事長・館長を務める高實康稔(たかざね・やすのり、元長崎大学教授)さんに話を伺った。
「日本の戦争の被害を展示する施設はたくさんありますが、日本の加害責任を問う資料館は珍しいと思います。長崎から原爆の悲惨さと核廃絶を訴えるのは重要だが、被害者意識からだけでは国際社会には届かない。日本の戦争での加害責任を認識、反省することが真の平和につながる。そのために、原爆資料館とは別に、『加害者』としての日本の歴史を展示する資料館をつくるというのが岡先生の思いでした。
原爆資料館の入館者が年間30万人といわれていますが、うちはその1%ぐらいです。でも、長崎に来たからには、原爆資料館だけでなくここも訪れて、両方見て帰ってほしいといつも言っています。
昨年、米国の映画監督オリバー・ストーンがこの資料館を訪問しました。その時、『米国の原爆投下が国際法に違反する戦争犯罪であり、投下したのは終戦後の対ソ連戦略を実験する場となった』と厳しく批判すると同時に、『原爆の失敗はその不当性と同時に、日本国と日本国民が加害者から被害者となり、被害者意識に埋没させてしまったことだ』と述べました。それは鋭い指摘だと思います。
岡先生は市議会で、日本の戦争の加害責任を考えるならば、むしろ日本人被爆者よりも朝鮮人被爆者を優先して援護すべきではないか、実態調査をするべきだ、と訴えていました」
岡牧師は激しい人だったという。あまりに弁舌鋭く、自分にも他者にも厳しく、高實さんも、何度か活動から身を引くことを考えたこともあったという。しかし、日本の加害責任をいち早く指摘し、その追及のために行動してきた岡牧師亡き後、その活動を引き継いできた。
岡正治牧師を支えた聖書信仰とは?
追悼集『追悼岡正治 孤塁を守る戦い』には、朝鮮人、被爆者、市民活動家、政治家、研究者など100人以上が文を寄せている。その中で高實さんは、「先生、本当に無念です」という追悼文を書いている。
1982年、長崎市に対して忠魂碑訴訟を起こしたとき、岡牧師は市議会議場に乱入した右翼の少年に殴られるという事件に遭い、教会にも約2カ月間、右翼の街宣車が押し掛けたという。「岡、出てこい」と言われて出てみると、「岡、お前は長崎から出ていけ」と言う。しかし、岡牧師は「一体、私にどうしろと言うんだ」とデンと構えていたという。心配から、支援者数人が交代で教会に泊まり込むことになった。
高實さんもその一人として教会に泊まり込み、毎晩遅くまで岡牧師と語り合う中で、「先生の信念と生き方が厳格に聖書に根ざしたものであることもまた深い感銘を受けたものです」とつづっている。
議場で襲った少年についても、「厳しい処分を望むか」という検事の質問に、「とんでもない、寛大な処置を望みます」と答えた。高實さんは、これも聖書に基づく人間愛を内に秘めていた証しだった、と書いている。
聖書に根ざした贖罪(しょくざい)
岡牧師の生涯を支えたものは一体何だったのか。「岡先生を支えていたものは、戦争中の自らの戦争責任への、聖書に根ざした贖罪、罪の償いの意識だったのだと思います」と高實さんは語る。
岡正治の自伝『道ひとすじに』には、広島に落とされた原爆による被害の惨状を知り、天皇に戦争終結を直訴すると訴え、当時教員であった広島・江田島の海軍兵学校を追放され、終戦を迎えた日のことをこう記している。
「非国民というレッテルと、軍法会議と銃殺を覚悟して、それを行動の上で戦ったのは、長い11年2カ月の海軍生活中、わずかに6日間にすぎなかったのかという、胸をえぐられるようなざんげの思いで、わたしはその日終日泣き続けた」
高實さんは、子どもを連れて、数年間、岡牧師の教会に行き、説教を聴き続けた。洗礼を受けることはなかったが、追悼集のあとがきにはこう記した。
「一つの枝が苦しむ時、総力でその枝を支えるべきだという先生のキリスト教信仰は、周囲の人々の苦しみに向けられたばかりではなく、いわれなき差別に苦しむ在日韓国・朝鮮人や、放置されたままの外国人被爆者の救済へと先生を駆り立てました。また、差別と抑圧の根源として天皇制の本質を見抜き、天皇制を撃つ闘いに果敢に挑まれました。そこには祈りと実践、ことばと行動の見事な一致が見られます」
8月14日、安倍晋三首相は「戦後70年談話」を発表した。そこでは、「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と述べた。
ならば、日本の「加害」への問いに目が向けられるべきだ。筆者を含め、あまりにそれを知らなさ過ぎる。そして、それを生涯問い続けてきたキリスト者がいたことは、収集された朝鮮・中国の声と歴史と共に、もっと多くの人に記憶される価値があるのではないだろうか。
岡正治牧師年譜
1918年 大阪で生まれる。
1933年 15歳で広島の呉海兵団に入団、海軍で艦艇勤務、中国などの作戦に従事
1938年 日本福音ルーテル門司教会で洗礼を受ける。
1943年 広島・江田島の海軍兵学校教員となる。
1945年 8月6日の広島への原爆投下を知り、天皇に戦争終結を直訴することを教員や生徒に訴えて追放され、15日終戦を迎える。
1951年 日本ルーテル神学校に33歳で入学
1952年 妻を亡くす。
1958年 日本福音ルーテル長崎教会の牧師に就任
1965年 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」結成
1971年 長崎市議会議員選挙で当選(1983年まで、3期務める)
1974年 長崎市議会で朝鮮人被爆者の実態調査を要求
1979年 長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑建立
1981年 朝鮮人被爆者の実態調査に着手、少なくとも1万9391人が被爆、9169人が死亡したことを明らかにする。さらに敗戦当時、長崎在住の朝鮮人7万人の実態調査を行う。
1982年 本島等長崎市長を相手取り、長崎忠魂碑訴訟を提訴(1審勝訴、2審敗訴)
1994年 長崎市内の自宅で75歳で病死
■ 日本の「戦争加害」を問い続けた岡正治牧師:(1)(2)
■ 岡まさはる記念長崎平和資料館ホームページ