1945年8月9日の原爆投下で教職員9人、生徒133人が犠牲となった私立鎮西学院高校(長崎県諫早市)が8日、長崎市にある旧校舎(現活水中学・高校)から、諫早市の現校舎までの約30キロをリレー方式で歩く「平和大行進」を行い、同校の教職員や生徒、活水高校の生徒ら約900人が参加した。
旧鎮西学院中学(現鎮西学院高校)は1881年、メソジストの米国人宣教師によって創設された。長崎の爆心地から約500メートルの地点にあり、被爆により4階建て旧校舎は、3階から上が倒壊した。1946年に諫早市に移転した後、1951年からはミッションスクールの私立活水中学・高校が敷地を譲り受けた。原爆で崩壊した校舎の一部は被爆遺構として今も残されている。
活水中学・高校の校名は、新約聖書のヨハネによる福音書4章14節の「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」から取られている。
出発式では、活水高校の生徒から鎮西学院高校の生徒に、「命の水」が入った手桶(たおけ)が手渡され、参加者全員で鎮西学院の平和宣言を読み上げた。
幸福(さいわい)なるかな平和ならしむる者(マタイ5章9節)
War is Hell
悲惨な被爆体験を持つ鎮西学院は
神の前に深い罪を悔い改め
核廃絶とあらゆる戦争をなくすために祈り
地の上に真の平和を来たらすことを宣言する
「War is Hell(戦争は地獄である)」 は、鎮西学院第18代院長の千葉胤雄(ちば・たねお、1898~1959)が、被爆したときの日記に書いた言葉で、原爆で多くの教職員、生徒が犠牲になった鎮西学院の平和を願う象徴の言葉となっている。
宣言を読み上げた後、生徒の代表が「この平和宣言文には、私たち鎮西学院の魂が込められています。この思いを次の世代に引き継ごうと思います。お納めください」と述べて、列席していた田上富久・長崎市長に手渡した。
炎天下となったこの日、田上市長は「70年前の8月9日はやはり暑い日で、街は破壊され、体も破壊され、心が壊れそうになる中で、たくさんの人が存在していました」と、被爆した70年前の長崎に触れ、さまざまな世代が共に歩く平和大行進は、世代を超えて平和をつなぐ素晴らしい証言だと語った。また、行進に参加する高校生たちが、戦争経験者から直接話を聞ける最後の世代だとし、「私たちが受け継ぐんだという思いを持って、今日歩いていただけると大変うれいしい」と、行進に向かう生徒たちの背中を押した。
行進は1区間約3キロに分け、出発式で手渡された「命の水」が入った手桶をバトン代わりにつないだ。教職員や生徒だけではなく、当時学生だったOBらも行進を共にした。
当時14歳だった西嗣也さん(84)は、学徒動員で働いていた三菱の工場からの帰路に被爆したという。
「校舎が崩壊した後は、長崎市の銀屋町教会(日本基督教団)で授業が行われていました。教会には学生が入りきらず、何回かに分けて授業をしていました。原爆で学籍簿が全部燃えてしまったので、ニセ学生や戦地から帰ってきた予科練帰りの学生は、敗戦で希望を失って、学校でタバコやヒロポン(覚せい剤)を打つような学生もいて、ひどく荒れていて、当時の先生や教会の牧師さんも大変苦労されていました」と、当時の記憶を語ってくれた。
午前9時過ぎに、活水中学・高校を出発した一行は、長崎市内から日見峠を抜け、諫早市に向かい、午後4時過ぎに鎮西学院高校に到着。チャペルの前で到着の祈りをささげた。