世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会と世界イスラーム連盟(MWL)共催の「ムスリムと日本の宗教者との対話プログラム」が9日と10日、グランドハイアット東京(東京都港区)で開催された。
9日に行われたセッションII「宗教の違いと憎しみの文化」では、5人の発題者によるパネル討論が行われた。このうち2人はクリスチャンの研究者で、歴史学や中東・イスラム研究などが専門の板垣雄三氏(東京大学・東京経済大学名誉教授)は、「私たちが目撃しているのは欧米中心主義の断末魔」と題して発題、キリスト教思想や比較宗教倫理学などが専門の小原克博氏(同志社大学神学部教授)は、セッションIIのテーマに「アイデンティティー・ポリティクスの罠(わな)に陥らないために」という副題を付けて発題した。
10日に行われたセッションIII「宗教の価値と共通の課題」では6人が発題。このうち、牧師で日本キリスト教協議会(NCC)総幹事を歴任した山本俊正氏(関西学院大学教授・宗教主事)は、「いのちの尊厳という宗教的価値を脅かすもの」と題して発題した。
欧米中心主義が近代の病根 脱出口は自己批判と対話
板垣氏は、世界史における宗教対立の違いを3つに分類。諸宗教の並列(対立と対話)がむしろ共生における多様性とともに融和や高次の融合をも促す第1の型、政治が宗教対立を煽動し操作し利用する第2の型、宗教上の対立軸が政治化され社会化される第3の型、を識別する視角を提案した。
そして、第3の型を標準化して押し付ける欧米中心主義が、宗教紛争を克服するためには欧米標準の「民主化」をグローバルに広げなければならないと主張し、戦争を継続してきたと指摘。欧米中心主義が近代の病根であるとした。
板垣氏は、世界史を眺め直すと、世界の手本にされてきた欧州文明の近代性の基盤に、イスラム文明の超近代性があることに気付くと言う。欧米中心主義がもたらした危機を克服するためには、まず近代の病弊、すなわち超近代の歪曲が起きた原因を正視しなければならないと主張した。
その上で、日本基督教団の信徒でもある板垣氏は、「キリスト教が反省して済むことでは全くない」と指摘。「イスラム教が反テロ戦争につけ込まれている状態と、ユダヤ教が植民国家イスラエルに代表されている状態。これらがどのように変えられるかは、人類の将来の運命に関わる重大事だ」と述べた。
一方、板垣氏は、日本社会にとってもこうした問題は他人事ではないと語った。自爆攻撃の原型は神風特攻隊に見られ、地下鉄サリン事件という都市型無差別テロを最初に実行したのはオウム真理教であり、福島原発事故は核テロの予兆、日本の再軍国化は人間破滅への兆しなどと語った。
そして板垣氏は、「徹底した自己批判と対話こそ、いま私たちが取り組むべき課題であると信じる」と結論づけた。
憎しみの文化が宗教の違いという境界線を生み出す
小原氏は、宗教の違いが憎しみの文化を生み出すのではなく、むしろ、憎しみの文化が宗教の違いという境界線を生み出していると語った。そして、憎しみや暴力を正当化するために宗教的アイデンティティーの違いが強調され、利用されていると指摘。人間が持つ多様なアイデンティティーの中で、宗教的アイデンティティーだけが特別視され、異質な他者をあぶり出そうとする点に、アイデンティティー・ポリティクスの罠があるとし、それが憎しみの文化の今日的な構造だと語った。
小原氏によると、宗教的アイデンティティーを強調し過ぎると、宗教を本質化、あるいはステレオタイプ化する危険にも接近しかねないという。その上で小原氏は、憎しみの文化を脱構築していくためには、異質な他者の実像をできる限り多様に伝える必要があると述べた。
「憎しみの文化が社会を覆うと、皮肉にも、人は憎しみの感情を持たないままに異質な他者を排除することができるようになる」と小原氏。「近代の大量殺りくの多くは憎しみが集積した結果ではなく、むしろ無関心により起動した暴力システムの結果である」と述べ、その例としてユダヤ人のホロコーストを挙げた。
そして、「われわれは人々を無関心へと陥らせないように、絶えず新たな語りの技法を探し続ける必要がある」と強調。「『全ての宗教は平和を求めている』というメッセージは、真実であったとしても、その単調さが人々を無関心へ追いやっているということはないか? 平和のメッセージが敵と味方を峻別(しゅんべつ)する二元論に陥っているとすれば、それは皮肉にも憎しみの文化を補完することにはなっていないか?」と問題を提起した。
小原氏は、「絶えざる自己批判と自己変革なしに、憎しみの文化の狡猾(こうかつ)さに打ち勝つことは決してできない」と強調。「このような中で『全ての宗教は平和を求めている』と繰り返すことは、一方で真理の愚直さを体現しているともいえるが、他方、それは憎しみの文化によって生み出された境界線を強めてしまうという、意図しない結果に至る危険性もある。日本宗教界により繊細かつ大胆なメッセージが求められている理由がここにある」と結んだ。
神の似姿に創られた人間 能力ではなく存在自体に価値
山本氏は、いのちの尊厳を脅かす要因として、1)環境破壊、2)戦争、3)経済格差の3つを挙げた上で、いのちの尊厳について聖書が何を伝えているかについて紹介した。
「聖書はもともと科学書ではなく、世界の在り方や人間のいのち、そして生きる意味について語ろうとしているもの」だと山本氏。人間の創造について、聖書では二通りの形で描かれているとして、創世記1章27節と2章7節を引用した。特に1章27節に描かれている、神の似姿として創られた人間の意味に注目。「人間とは神の姿を鏡に映したような存在」と述べ、「神の似姿に創られたということは、一人ひとりの中に神性が宿り、大切にされなければならないことを意味している」と語った。
山本氏は、この聖書の内容が人権思想の元となった箇所としても知られていると説明。「キリスト教の人間観には、人の能力の大小・高低にかかわらず、一人ひとりがこの世にいのちを受けたかけがえのない存在であることに価値を見いだしている」と語った。最後には、「この会議を通して、私たちは対話からアクションへ、いのちの尊厳を脅かす要因に取り組む働きを一緒にできたら」と希望を表明して発題を終えた。