「神とはどんな存在か」。恐らく多くの人が、教会で洗礼を受けるときに牧師から同様の質問をされたのではないだろうか。答えも、「父」だったり、「先生」だったり、「道」だったりとさまざまだ。聖書にはこう書いてある。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:6)。
昨年6月にハフィントンポストが「『聖書は戦いを禁じていない』総合格闘技に挑む牧師たち」という記事を出し、大きな話題となった。ここで紹介されているのは、総合格闘技の試合やトレーニングを通してイエス・キリストを伝える牧師たちだ。
恐らくこの記事を読んだ読者の中には賛否両論あるだろう。聖書を読んだことのある人なら、「右の頬を叩かれたら、左の頬を出すのがクリスチャンじゃないのか?」と彼らを批判する人もいるかもしれない。しかし、彼らは言う。「タフな男も、救世主を必要としている」と。
この記事で紹介されている動画は、ナッシュビル映画祭やボストン・インデペンデント映画祭の公式上映作品に選ばれたドキュメンタリー映画『Fight Church(ファイト・チャーチ)』の予告編。この作品を製作したブライアン・ストーケル監督は、教会に足を運んでもらうために、戦いについて教えることを「戦いの教え」と定義して紹介。「男性向けの教会活動の一環として総合格闘技を取り入れている教会は、数え切れないほどあると分かったのです」と語る。
米国では格闘技の教室や観戦イベントを開いている教会もあれば、教会の敷地内で総合格闘技の試合を実際に開催している教会もある。日本でも、剣道や柔道などの道場を開いたり、稽古をする教会も少数ながら存在する。
記事中でも「教会で戦いの教えを説くのは、一見矛盾しているように見える」と触れられているが、こうした活動をする牧師は、イエス・キリストを「たくましい男」の理想像としていると語る。また、ある牧師は、「われわれは互いに顔を打ち合う、神を恐れる人間たちにすぎない」と、自分たちが何も特別ではないことを強調している。
同映画の公式サイトでは、「私たちの目標は、完全に客観的な立場を貫きながら、楽しめる物語として事実を紹介することです。私たちの意見や感情をさしはさまず、事実に自らを語らせたいのです。(中略)この映画は、登場する挑戦的な人物たちを、客観的に、そしてしばしば共感的なかたちで紹介していきます。私たちは観客に、宗教と暴力の結びつきについて、自ら考察してもらいたいと思っています」とコメントしている。実際にこのような活動を行っている教会には、小さな男の子から大人まで、年齢を超えて参加者が集い、「男らしさ」についての教えに耳を傾けているという。
「戦い」そのものが好ましいものとはいえないことは、疑う余地が無い。しかし、昨今のいじめ問題でも、積極的に行動するよりもむしろ傍観者となることの問題性、さらに、「いじめ」と「いじり」の境界線が分からない子どもが多いことが指摘されている。大人も、子どもたちに対して、問題から「避ける」ことは教えるが、問題の根本的な解決策については教えていないことが指摘されている。
聖書は、人に他人の優劣を決める権利はないと教えている。サッカーや野球などのスポーツが得意な人もいれば、勉強が得意な人、音楽が得意な人、創作が得意な人、経営が得意な人もいる。格闘技も、さまざまな個性の表現として受け入れることが、神の意思ではないだろうか。