生きている者の神
マルコの福音書12章18節~27節
[1]序
今回の聖書箇所・マルコ12章18~27節、その前後関係を注意。
18節の「また」は、その前の12章13~17節との関係を示しています。つまり、「彼ら」(13節、11章27節の祭司長、律法学者と長老たちを指す)が、パリサイ人とヘロデ党数人を派遣し(13節)、わなに陥れようとしたと同じく、今度は、サドカイ人たちを派遣し、本来の意味では質問とは言えない質問を浴びせかけるのです。パリサイ人、ヘロデ党、サドカイ人たちは、普段は意見を異にし、対立する人々です。その彼らがこぞって主イエスを詰問します。
12章18~27節と28節以下の箇所との関係は、「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って」(28節)から、結びは明らかです。34節の「あなたは(彼らのようにではなく)神の国から遠くない」との主イエスのことばは、(彼ら)パリサイ人、ヘロデ党とサドカイ人たちの質問と対比しています。
[2]サドカイ人たちの質問(18~23節)
(1)サドカイ人たち
祭司のグループで、ユダヤ教の貴族。ただモーセ五書だけを認め、復活の教え(イザヤ26章19節、ダニエル12章1~3節など)を、モーセ五書に見出せず、聖書的と言えないと考え、主張。
(2)「先生。モーセは私たちのためにこう書いています」(19節)
申命記25章5節以下。
(3)「さて」(20~23節)
私が聞いている聖書朗読のテープでは、複数の人の声(18節、サドカイ人たち)で、独特の嫌みのある言い方が聞こえてきます。
[3]主イエスの答え(24~27節)
(1)サドカイ人たちの根本的問題点
24、25節、「イエスは彼らに言われた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです』」。
①「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか」、参照「あなたがたはたいへんな思い違いをしています」(27節後半)。直面している課題は、聖書の読み方です。聖書を正しく、深く、豊かに知り(読み)、それに従い生き、伝えて行くこと、これが課題です。
②「神の力」、単に人間の考え・思索で捉えられないのです。理屈(りくつ)まして屁理屈などの対象なのではないのです。そうです、人間の思考の限界を越える「神の力」なのです。
(2)「生きている者の神」(26、27節)
①26節
イ)前半、「死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか」。
サドカイ人たちが、申命記25章5節以下に基づき復活を否定するのに対して、聖書の別の個所を引用する応答の仕方。
ロ)後半、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
生ける神は、アブラハムの神となり、彼に約束を与えられた(契約を結ばれた)のです。この約束は、何者・何物によっても、そうです、死によっても破棄されることなどないのです。
②27節
上記の「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」について主イエスの解釈、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」。復活の確かさの根拠は、人間に対する神の約束が変わることがない、つまり神のご真実なのです。
この事実をアブラハムとの関係で、パウロは、「このことは、彼(アブラハム)が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです」と証言しています。そしてこの恵みの事実は、「また私たちのためです」(ローマ4章24節)。
[4]結び
(1)聖書のことばをめぐる、「思い違い」
「モーセは私たちのためにこう書いています」(19節)だけでは、不十分。ある場合には、危険ですらあると教えられます。形式的には、聖書のことばを自分たちのために引用しながら、「思い違い」(24節)、それも「たいへんな思い違いを」(27節)する可能性があるのですから。
ただ一つの希望は、主イエスご自身の聖書解釈です。今回の個所のように新約聖書に見る実例。さらに新約聖書に見る旧約聖書の引用と解釈の全体。
以上の土台に立ち、聖霊ご自身が、説教者・宣教者を導いて聖書のことばを、今、ここで説き明かす助けをしてくださるとの信仰、そのための会衆全体の祈りは、欠けてはならない備えです。
(2)復活の課題は、何と言っても主イエスご自身の復活の事実により確証されるのです。
(3)「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を、「天にまします、我らの父よ」と祈ることが許されている、まさに驚くばかりの恵みです、参照ローマ8章15節、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」。ガラテヤ4章5、6節、「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト者の神は、愛と慰めの神である」(パスカル)
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4章9、10節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。