すべての民の祈りの家
マルコの福音書11章12節~25節
[1]序
今回の聖書箇所は、マルコ11章12~25節。主イエスご自身が弟子たちの先頭に立ち進み、目当てとして来たエルサレム。そのエルサレムにおける最初の出来事をマルコはこの箇所に記しています。
この箇所は、いちじくの木についての記述(12~14節、20~25節)も、また宮きよめと呼ばれる箇所(15~19節)も、確かに理解しやすいとは言えません。
何が、どのように書かれているかを注意しながら、マルコがこの箇所を通して伝えようとしているメッセ-ジ・意図に心を傾けます。
まず第一に確認したいのは、12節から25節までの特徴ある全体の流れです。全体は、以下の三つの部分に分かれます。
12~14節、いちじくの木について(A)。
15~19節、宮きよめ(B)。
20~25節、いちじくの木について(A)。
いちじくの木についての記事・Aが宮きよめの記事・Bをはさんで、ABAとサンドイッチのようになっています。
このサンドイッチ型は、私たちが5章21~43節に見るヤイロの娘の記事と長血を患っていた婦人の記事で確認したように、二つの記事が深く結びつき、二つが一つの全体としてメッセージを伝えています。
この箇所でもいちじくの木についての記事と宮きよめの記事は深く結びつき、二つが一つとなりメッセージを伝えているのです。
[2]いちじくの木について(12~14節、20~25節)
(1)12~14節
「……いちじくのなる季節ではなかった」(13節)、だから実のないのは当然であったにもかかわらず、このように記している意図を知るため、以下に見る旧約聖書の背景を注意したいのです。
「いちじくの木」(13節)、12章1節以下に見るぶどう園と似た意味でイスラエルの姿を描くために用いられています。
①ミカ7章1~6節
いちじく(1節)は、神の御前に相応しく歩まないイスラエルと彼らに対する審判を示すために用いられています。
②エレミヤ8章13節
「わたしは彼らを、借り入れたい。―主の御告げ―しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする」
当然期待される生き方をしないイスラエルと彼らに対する審判。
(2)20~25節
あるべき姿にないものに対してさばきを示すように、いちじくの木が根まで枯れてしまう中で、22節以下の主イエスのことばは、救いの道・イスラエルの復興を指し示す、実に慰めに満ちたものです。
[3]すべての民の祈りの家(15~19節)
(1)主イエスの行為(15、16節)
主イエスの行為の背景について。エルサレムの神殿での献金は、イスラエルのシェケルでなされるように定められていました(参照・出エジプト30章13節)。また犠牲としてささげられる動物を遠くから運ぶのは、大変でした。
こうした事情のため、エルサレムでは一般の貨幣とシェケルの両替の店や犠牲の動物を売る店が始まりました。これらの店が、いつの間にか神殿の一番外側・「異邦人の庭」に入り込んで来たのです。
この事実は、さらに神殿の内部に入ることを許されていたイスラエルの人々の礼拝にとっては問題ではなかったのです。しかしわずかに「異邦人の庭」までしか入ることを許されていなかった異邦人は、これらの店のため礼拝から締め出される結果になったのです。
(2)主イエスの教え(17~19節)
①「わたしの家は、すべての民の祈りの家」
これは、イザヤ56章7節からの引用です。この聖句の意味を理解するため、イザヤ56章1~6節を注意することが助けになります。
そこでは、イスラエルの人々から差別されていた外国人や宦官(3節)に対する主なる神の呼びかけを見ます。イスラエルの人々のような価値がないと自分自身を見下げてしまった人々。彼らに、外国人や宦官とイスラエルの差別はなく、「すべて」の民が神の家に招かれていると呼びかけています。
②ガラテヤ3章26~28節
主イエスがイザヤ56章7節を引用し明らかにしている恵みを、ガラテヤ3章26~28節で、パウロはさらに豊かな広がりで明言しています。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストを身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」
[4]結び
(1)便利のため始めた異邦人の庭での両替や犠牲の動物の販売が、異邦人にとり大切なものとして備えられた異邦人の庭本来の目的をいつの間にか果たすのを妨げてしまいます。
(2)本来の道からそれてしまい・的外れの状態になっている者のため、主なる神への祈りを勧めています。
(3)主なる神の御心は、すべての民の礼拝です。
「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118篇22~24節)
◇
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。