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使徒の働き22章30節~23章10節
[1]序
今回も使徒の働きを読み進めて行きます。パウロがエルサレムの議会でなす証言を二つの点に絞り、思い巡らします。
第一は、23章1~5節で、パウロと大祭司アナニヤとの関係。
第二は、6節から10節を中心に、議会がパリサイ人とサドカイ人により構成され、彼らの間に意見の相異があるのを見て取り、パウロが証言を進めていく姿。
[2]大祭司アナニヤとの関係
1節、「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。』」に見るパウロは、実に堂々とした印象を与えます。
告訴され(22章30節、「その翌日、千人隊長は、パウロがなぜユダヤ人に告訴されたのかを確かめたいと思って、パウロの鎖を解いてやり、祭司長たちと全議会の召集を命じ、パウロを連れて行って、彼らの前に立たせた」)、さばかれる立場(3節)にありながら、福音の宣教者として、言わば胸をはって主イエスのあかし(11節、「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた」)をなすのです。
パウロはまず自分の過去について語り出します。しかしこの箇所では、22章3節以下とは違い、パウロが語ったことばを詳しく描かず、ただ要約のみの記録と推定されます。
と言いますのは、9節に、「霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない」と、パリサイ派のある律法学者たちの発言を見ます。これは明らかにダマスコ途上で、主イエスがパウロに語りかけたことの言及です。つまりパウロは、22章3節以下の場合同様、議会の前でも、出生、教育と回心などに触れたが、ルカはその要約だけを記したと考えられます。
(1)大祭司アナニヤ、パウロに対して
パウロが語るのを聞き、大祭司アナニヤは、「パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた」(2節)のです。パウロの堂々とした態度、その発言に怒りを燃やしたのです。大祭司は議会の議長として、冷静に事を運ぶ責任があるにもかかわらず、言わば力ずくで発言を封じようとするのです。アナニヤについては、大祭司にふさわしくない人物だったと悲しく恐ろしい事実が伝えられています。
(2)パウロ、アナニヤに対して
3節、大祭司アナニヤは、パウロの口を打てと命じます。しかし、「神があなたを打たれる」(3節)とパウロは断言し、「打たれるのはあなた自身だ。神御自身によって」と迫ります。裁きの座にある者は、何か特別権威を持つのではない。どこまでも「律法に従って」(3節)裁き、律法の権威に従うべきなのです。そして律法は、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない」(レビ19章15節)と明言しています。それ故、「律法にそむいて、私を打てと命じるのですか」と、パウロは言い切ります。
裁きの座にある人間が絶対化されるのではない。その人が律法に従っているか、背いているか、それが問題なのです。
律法、つまり神の御旨に従うなら、その人を敬う。
しかし律法に背く者は、いかに権力を持つように見える人物であっても恐れないのです。
問題は5節です。パウロの大胆な発言に対して、「そばに立っている者たちが、『あなたは神の大祭司をののしるのか』」(4節)と断じると、「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった」(5節)とパウロは答えたのです。
この発言はどのように受け止めるべきなのでしょうか。
たとえばパウロはダマスコ途上の経験以来目を悪くし、文字通り大祭司を見分けることができなかったとする見方があります。
またパウロが知っていた議会は、二十年余の期間に様子が変わり、大祭司を見分け得なかったとか、議場が混乱状態に陥り、誰がパウロの口を打てと言ったかパウロは判別できなかったのではとの見解もあります。
しかし前後の流れから判断して、パウロの発言を一種の反語、皮肉と見る理解が一番自然です。つまり、「律法に背いて、不当な裁きをなす者、そんな者がまさか大祭司だとは私は夢にも思いませんでしたよ」。そんな意味合いを含む言い回し。「形ではなく、実態から見て、彼が大祭司などとは、とても、とても考えることなどできるわけがありません」。パウロの鋭い皮肉、しかも、「あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない」(5節)と出エジプト記22章28節を引用し、聖書のことば・主なる神の御旨に従順に従い、すべてをなそうとしていると明言するのです。聖書のことばに従順である故に、律法に背き、形式的にだけ裁きの座にある者に抵抗せざるを得ない。これがパウロの発言の真意では。
[3]議会全体に対して
パウロは、議会の議長である大祭司ばかりでなく、議会全体を相手にします。
議会がパリサイ人とザドカイ人で構成されているのを見て取ると、「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」(6節)と、叫びます。この発言は、大きな効果を及ぼし、「パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた」(7節)のです。議長の大祭司は律法に背き、また基本的な信仰告白を否定するサドカイ人たちが議会を構成している現実を前に、パウロは相手の実態を見て取り、相手の中になお残されている真理契機を引き出し、懸命にあかしをなします。
この場合、パウロは、「死者の復活という望み」という点に限ってみれば、パリサイ人と理解を同じくし、その限りにおいては、パウロは「パリサイ人であり、パリサイ人の子」と言っても、何か策略めいたものではないのです。しかも、パウロは、死者の復活が単なる希望ではなく、主イエスの復活の事実の故にすでに現実のものとして現されつつあり、さらに主イエスの再臨の時、キリストに属する者が復活する確信を与えられています(参照・Ⅰコリント15章20~28節)。
パウロは、議会を構成している人々を見て取り、相手を全体として否定せず、「死者の復活という望み」において、パリサイ人たちとの一致を指摘し、その成就が主イエスの復活において開始されていると証言を進めているのです。
パウロの効果的な発言のため、議会は二分し騒ぎは大きくなります。しかしその中で、パリサイ派のある律法学者たちは、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない」と、パウロの証言を是認するのです。これは、議会全体によるものではないにしても、有力な流れに属する人々の是認として、パウロの証言が意味深い応答を受けたと言えます。
[4]結び
今回私たちが味わっている箇所は、使徒の働きの中でも、理解困難なところの一つです。しかし23章11節から判断して、パウロは主のため証しをなし得たと見るべきです。そして私たちは、この箇所を通して、少なくとも二つの事柄を教えられました。
一つは、大祭司アナニヤに見るように、一つの立場が与えられていることは、それですべてが解決しない、この事実の確認です。その立場、身分にふさわしく、十分使命を果たしているかどうかが大切です。
私たちは自分自身の場合について真剣に考えるべきです。与えられている立場や身分にふさわしく生きているかどうか。この一点から目を離さず、常に悔い改め、自己改革を続けて進む。これこそ宗教改革の精神です。
立場に安住し、大祭司アナニヤの道を歩んではならない。自らについて、群れの指導者について、国の指導者について各自が与えられた立場にふさわしく生きているかどうか。パウロのように聖書に従い見て取り、祈る必要があります。戦う必要があります。
第二は、議会がサドカイ人とパリサイ人によって構成されているのをパウロは見て取り、パリサイ人のうちになお残されている真理契機を受け止め、福音の証しをなしている点です。私たちは、日本人キリスト者・教会として、日本の歴史を一様に見ることは許されません。より詳しく検討し、その実態を見て取る。否定されるべきものと正しく評価されるべきものを見て取り区別して行く必要があります。正しい点を見抜き、その成就として福音を伝える責任があります。
たとえば、「和をもって尊しとなす」。これは評価されるべき事柄です。
しかし、「和」とは何か。いかにして可能か。主イエスにある神との平和に基づき人に与えられた平和の中に、私たちは和の成就を見、その一点を指し示すのです。私たちに与えられている責任、その一つは見て取ることです。そのためには一つ一つの小さな事柄を大切にする忍耐の積み重ねによる真の知識が求められます。こうした根の営みに支えられた直観的な判断、識別力が大切です。ピリピ1章9~11節、コロサイ1章9、10節の祈りを私たちの祈りとして。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。