主よ、目を留めてください
哀歌5章1~18節
「主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています」(エレミヤ14章20節)
[1]序
今回は、哀歌最後の章に入ります。5章1~18節の箇所です。次回は、哀歌の最後、5章19~22節を味わう予定です。
[2]5章1~10節
1節に見るように、主なる神への切なる祈り。指導者たちがバビロンへ捕囚の民として連れ去られた後、エルサレムをはじめユダに残された人々の現状を哀歌の詩人は訴えながら、以前の状態への回復を切望しています。
(1)1節
「私たちに起こったこと」とは、2~18節の嘆きや訴えを通し描いている社会的、経済的、政治的また宗教的な崩壊のことです。それは、個人としても共同体としても徹底的な弱体化を意味します。この現実に立ち、嘆き訴えています。
「私たち」。哀歌の詩人は、共同体を代表して、全く低くされた民の実情を主なる神に見て頂きたいと切願します。
(2)2~10節
<2、3節>
最初に焦点を当てているのは、家庭崩壊です。イスラエル社会の基盤である「相続地」(参照ヨシュア24章28節)は、イスラエルの民の内部においてさえ、所有権の移動を避けられて来ました。それがこともあろうに、「他国人の手に渡」ってしまう有り様です。これは、単に経済的問題であるばかりでなく宗教的、文化的痛手です。家族関係は破壊され、「みなしご」「やもめ」(3節)など、最も頼りない存在になってしまった事実を、妻や子供たちの視点に立ち描いています(参照詩篇68篇5節、イザヤ1章17節)。
<4~6節>
バビロン軍による攻撃にも生き残り、バビロン捕囚にもならず、エルサレムを中心としたユダに残留した人々がいました。その人々が直面している苦境を描きます。水をはじめとして生存のため無くてはならないものを手に入れることさえ、いかに困難になっているか、悲惨な事態を訴えています。
4節、「水」。最も必要なものが欠乏し、法外な代価を払って手に入れなければならないのです。約束の地で与えられると約束された祝福(申命記6章10、11節)から、大きく離れてしまった有様です。
5節、「休むことができません」。「休み」は、主なる神がイスラエルの民に与える賜物の中で大切なものの一つ(申命記12章10節、25章19節、Ⅱサムエル7章1、11節)です。その「休み」から見放されているのです。神の民として全く低くされた様を訴えています。
6節、「手を伸ばしました」。エジプトやアッシリヤと政治的、軍事的同盟を結ぶこと。実際には属国となることにほかならない。
<7~10節>
6節まで描写して来たことを、さらに肉体的また精神的な激しい痛みを深く掘り下げ描きます。バビロン軍による陥落と占領、それらの結果を身に受けたユダの生存者の底知れぬ苦悩です。
7節。今自分たちが直面している災いは、自分たちの罪(参照3章42節、5章16節)と先祖たちの罪に対するさばきであると、主なる神の御前に、哀歌の詩人はイスラエルの過去と現在とをしっかり見つめています。
「私たちは恥の中に伏し、侮辱が私たちのおおいとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖たちも、私たちの若いころから今日まで罪を犯して、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです」(エレミヤ3章25節)
<8~10節>
8~10節では、7節に見るさばきをより詳しく説明しています。
8節。ユダは、今や独立国としての立場を失い、バビロンのネブカデレザルの奴隷・家来(Ⅱ列王記25章24節)たちに統治されることになったのです。
9、10節。戦争と占領の結果、エルサレムに生き残った人々の状態がどれほどひどいものであったか、食料事情に焦点を絞り描いています。極端な栄養失調の姿(10節)の描写をもって、ユダ全体が経済的にまた社会的に破壊され、荒野のように荒廃してしまった事実を伝えています。
[3]5章11~18節
(1)11~14節
占領後、暴力による社会的圧迫が婦人、長老、若者などに向けられ、市民社会全体が崩れ去る状態を訴えています。
11節。戦争また占領の暴力的な恐ろしさは、首都(シオン)ばかりでなく、国中(11節、「ユダの町々」)に及んだのです。参照イザヤ13章16節、ゼカリヤ14章2節。
12節。敵の手により、社会秩序の根底にまで邪悪な仕打ちを受けたのです。
「つるされ」。しばり首の刑罰は、大変な恥と考えられていました。長老たちへの尊敬は、主なる神から与えられた教えです(レビ19章32節)。
13節。ひき臼による粉ひき、特に大規模なものは重労働で、ロバなど動物を用いたのです。またたきぎを運ぶのも、ロバを用いるのが普通でした。ですから、13節で指摘されているのは、単に肉体的に厳しい重労働が課せられたというだけでない。動物のように扱われ、人間としての尊厳が踏みにじられている深刻な事態なのです。
14節、「年寄りたちは、城門に集まる」。その目的は、公の場で、訴訟の取り扱いなど公の仕事をなすためです。参照ルツ4章1、2節、箴言31章23節。また城門のまわりの広場は、年寄りたちが人々のにぎやかな往来をながめながら、日中を過ごす憩いの場でもありました。参照創世記19章1節、ヨブ29章7節。
(2)15~18節
ユダの崩壊が頂点に達した事態を描き、政治的、宗教的に死んだも同然の状態であると哀歌の詩人は悲しみの歌を歌います。ユダ王国は、ダビデに対する主なる神の契約を引き継ぐものと見なされて来ました。しかし、今やユダは存続の基盤を失うのです。
15節。神殿での礼拝にともなう喜びをはじめ、生活全体のなかから喜びが奪われてしまう様を指摘しています。参照エレミヤ7章34節、16章9節、31章13節。主なる神を喜ぶ礼拝の民は、「踊りが喪に変わ」ってしまう状態なのです。
16節。「冠」は、象徴的な意味で用いられています。参照イザヤ28章1、3節。ダビデ王朝、神殿の崩壊を前にして、「私たちが罪を犯した」と、深い罪の告白、参照5章7節。
17節、「心が病んで」「目が暗くなった」。エルサム陥落とバビロン捕囚、そしてエルサムに残存の人々の内面がいかなるものであるか象徴的に描いています。
18節。17節で内面的に描いているエルサレム残存の人々の状態を、目に見える形で描いています。「シオンの山」、主なる神のご臨在の象徴です。「狐がそこを歩き回っている」。契約が破られたときの呪いとして。参照イザヤ13章19~22節、34章11~17節、ゼパニヤ2章13~15節。
[4]結び
(1)バビロン軍の攻撃で死亡した人々、バビロン捕囚となった指導者たち。さらに哀歌の詩人は、エルサレムに残留した人々の惨状をも直視しています。どこに目を向けて行くべきかを私たちに教えてくれます。
(2)私たちの先祖の罪と私たちの罪と、哀歌の詩人は、歴史の流れを大切にします。過去を軽視せず、また現在の自分の立場を見逃さないのです。聖書全体は、私たちに過去と現在の尊さを教えています。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。